水をのむように歩く

 オフィスのトイレに座ると置かれてあった目の前に開かれたページは幾度も辿ったものだったが、のんびりと文字を追うと、今此処でというなぜか新しい臨場感で認識が広がり、以前もこうだったかと疑問も生まれる。あるいは見落としていた把握力の無い自分に呆れる。一度辿っただけでは済まない理由は、つまり、いずれもう一度と、最初の辿りではその読み物の本質的なメッセージの全的な理解が足りないから処分せずに書棚に置く選別が働くからであり、用のないものは棄てている。選別されたものは憶測の果ての再読に応えてくれるものばかりとは言えないが。
 読むことで捕まえた筈だった解釈の時間差には、絶えず微細なズレがあり、都度、水分補給の爽快感が新鮮であるような意味合いで、文字から声や新たな想像が、確かに生まれる。水を飲むような身体的な希求に即応する現実感のある喉を潤す実感が、最近はつくづくありがたい。
 明らかに質の違う、音の違う、キュッキュッと歩む、パウダースノーの舞う雪国を、レンズに氷着することもおかまいなしに、夜も朝も歩いた時に、水を飲むような実感と似た歩みだと幾度も思ったものだ。寒さに凍えて根をあげることなどこれまで一度もなかったのは、そういった育ちだからだろうか、血の巡りが良いからだろうかわからないが、とにかく不都合を感じたことがない。これもひとつのギフトだ。靴の中に入り込んだ粉雪も、爽快の一部となっていた。
 そして面白いことにそうした実感のある歩みの中では、ぽつんぽつんと視線が届く対象が、壁であっても人であっても、存在の現実感が膨れ上がるようにしてこちらに届く。