織物

つっぷした夢の中で、イメージは粒子がパラパラ散逸するみたいに消えてしまい、残らなかった。
「生き方が徹底的に間違っているんだよ」
ああ、いつかみた荒川修作の声だ。とそれは残った。

考える場所とは、日々の生活を示すわけで、選択の余地は無いという意味で、これも間違っているのだろう。人間は学習机の前で考えるわけではないし、教室でしか考えられないわけでもない。ましてや営みの対応の中考えているということも間違ってはいない。偶然に選択した住空間や環境が、つまり限定的で固有な考える場所となり、それはその限定的という意味合いの抑圧、反復、トレースという思考を形成するという意味である種もの哀しい。生来的な人間的な意味での考える場所というものは、欲求する時に生まれ、それまでの考えていた筈だった環境は、何も考えていないにひとしいことにこの時気づく。では、考えるとは何か。

場所を経巡る思索の果て(はじまりかもしれない)の、終の住処を探しだすという小さな結び目は、解かれて(散乱して)いた糸を倹しく織り上げるような正当性に満ちている。個人的な考えの行方という「旅」は、だがストイックな自己完結で終えるほど格好の良いものではないことにも、むしろ自明な喜びがあり、家族や縁者との地勢的な配置、距離なども、気づけば、物語の環のような筋が幾つも容易に走る、まさに王道の人間の立場と責任へ繋がり、ああ、ここから「浅川霊園へ繋がっている」と父親が呟いた一言が、なんだ墓守になれってことだったか。親と子の間に小さな笑いを引き起こしつつ、既に石の中で静止している伯父と父親が一緒に購入した霊園の「無」と彫られた墓石に、私自身も入るのだからなと、妙な現実感が静かに広がり、これまでの長いようで短い人生の紆余曲折自体から促された「完成」へ向け、再び白い画布を懐かしいように目を細め浮かべるのだった。お前はヨーロッパへ行ってしまって戻らないと一度は放蕩と離別を覚悟したのよと、笑みの中憶いだすように呟く母親自身の近未来のビジョンが、息子の顛末に促され降り注ぐ雨となり、その笑みは一層輝くように見えた。両親の寝床が二階であったから、これでようやく息子のガラクタで埋まった一階の広いリビングを奇麗に片付けて二重の安堵が広がる寝室にできる。残された老いの人生を楽しく明るく生きる端正な欲望の残り火が、母親の脳裏を駆け巡りはじめたようだ。

歩む一歩に絶えずズレるような吐息の思考は、すべきことは何かという反復だった。この問いは時に呪文のように不透明に煙突の煤の感触で眉間を黒く垂直の皺を刻み、喉のなかの入れ墨となった。血の匂いも香ったこの反復がいつか醗酵してマッコウクジラの龍涎香となり、それが白く溶けて骨へ沈着し判ったのは、したいようにすることがすべきことという、小話のオチに似たあまりに簡素な道理であり、それでしかない。けれども「したい」という欲望につきまとう「後ろめたさ」「恥」「動機」といった背反吸着する悪しき磁性は、どこで仕込んだか「倫理」の軸によって洗浄されて、やがて、一歩一歩が、ただ鮮明な歓びの吐息となる。