休息の日を軽い気持でA6判文庫本二冊千ページの速読を促す「血の記憶」に任せながら、同世代ともいえるGreg Iles (1960~)の、手法をいつの間にか堪能していた。雨沢康 (1953~)の翻訳もブレや迷いが無く適切であったこともある。最近萎えることもあったシリアルキラーの娯楽長編の中では、設定やプロット構成など際立っており、他を読みたくなり、とりあえず、戦慄の眠り(DEEP SLEEP)(2004) を注文。中古で上下各¥1なり。
同時に、物語を辿るスピードをシフトダウンさせたい気持があって、合間に引き寄せた、狡猾な「本物らしさ」獲得のレトリックを巡る谷崎の春琴抄(1933)へ言及する水村の文字を辿り、言葉の配置されている紙面という「其処」の、唯物的な手触りのようなことを考えていた。
「人間は見たいモノだけが見える」とはつまり「見えないモノには気づかない」、あるいは「見たくないモノは存在しない」などと、喩えられるが、社会がニッチな傾向に細分化される現代では、ネットワークなどによって地理的な障害がなくなり、情報取得の可能性が平等になるに従い、特権的なバリューイニシアティブも崩壊しているので、さまざまな断片とともに光と闇も併置され、憧れや欲望もその差異は曖昧となって、情報自体は、善し悪しといった判断の基準を成さない。固有な文脈で蓄積する「解釈」をロジックとして組み立てることで可能だが、これは犯罪を肯定する詭弁ともなる。眺めるパチンコ玉のような際限の無い断片を俯瞰する意味もなくなり、個別な色か群れに惹き込まれる。
「本物」リアルだと受け止める切実や希求が削がれる可能性も否めない。実際、イメージを支える仕立てが例えば、造花であっても生花であっても意味の成さない表象もある。今、この其処という(あるいは此処)という本物らしさへ、自己を投入すればするほど、その本物らしさは、共感の共時性(シンクロニシティー)を失う気配があるのは、自己と思えた姿勢に、自他の差異を見いだせないからであり(つまり俯瞰=客観を放棄)、加えて、立ち位置である地学的なリアルが、マップなどの情報化で済まされているという錯覚で日々薄められている。これは「其処」、「此処」といった身体を支える場所への同一認識成立の脆弱を意味している。
大いに「場所」を記述すべきであり、その特異な「其処」へ至る文脈にこそ「本物」は現れない。年のはじめに予感していたが、やはり芭蕉 (1644~16694)を腰を据えてこの季節考えようか。あるいは、Vasco da Gama (1469~1524)でもいい。
同時に、物語を辿るスピードをシフトダウンさせたい気持があって、合間に引き寄せた、狡猾な「本物らしさ」獲得のレトリックを巡る谷崎の春琴抄(1933)へ言及する水村の文字を辿り、言葉の配置されている紙面という「其処」の、唯物的な手触りのようなことを考えていた。
「人間は見たいモノだけが見える」とはつまり「見えないモノには気づかない」、あるいは「見たくないモノは存在しない」などと、喩えられるが、社会がニッチな傾向に細分化される現代では、ネットワークなどによって地理的な障害がなくなり、情報取得の可能性が平等になるに従い、特権的なバリューイニシアティブも崩壊しているので、さまざまな断片とともに光と闇も併置され、憧れや欲望もその差異は曖昧となって、情報自体は、善し悪しといった判断の基準を成さない。固有な文脈で蓄積する「解釈」をロジックとして組み立てることで可能だが、これは犯罪を肯定する詭弁ともなる。眺めるパチンコ玉のような際限の無い断片を俯瞰する意味もなくなり、個別な色か群れに惹き込まれる。
「本物」リアルだと受け止める切実や希求が削がれる可能性も否めない。実際、イメージを支える仕立てが例えば、造花であっても生花であっても意味の成さない表象もある。今、この其処という(あるいは此処)という本物らしさへ、自己を投入すればするほど、その本物らしさは、共感の共時性(シンクロニシティー)を失う気配があるのは、自己と思えた姿勢に、自他の差異を見いだせないからであり(つまり俯瞰=客観を放棄)、加えて、立ち位置である地学的なリアルが、マップなどの情報化で済まされているという錯覚で日々薄められている。これは「其処」、「此処」といった身体を支える場所への同一認識成立の脆弱を意味している。
大いに「場所」を記述すべきであり、その特異な「其処」へ至る文脈にこそ「本物」は現れない。年のはじめに予感していたが、やはり芭蕉 (1644~16694)を腰を据えてこの季節考えようか。あるいは、Vasco da Gama (1469~1524)でもいい。
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