乱暴と丁寧でもいい。どちらも下卑た香りはある。
剛胆に支えられて育まれた繊細であっても、繊細の蓄積が破綻し剛胆が生まれても、そういった位置は、いずれかに寄ったままで、そこからの実直そうな呟きも、自虐的な肯定となる程度だろう。つまり構造的に閉じている。
フェードという徐々に形を現す、あるいは徐々に形が消える現象は、実際の知覚経験なのだろうかと、便座に座る度に考えることがあった。何気ない連なりに慣れてしまっていて、断片の存在を知覚享受する際の、「人間的」な在り方に対して、いささか混乱し、突き詰めることは無意味だと決めつけていたことが露呈し、それでは誤摩化さないというのは、どういうことかと壁に向かって問うて、これは何か剣呑な箇所に踏み入れた感覚があった。つまり、実際は、ほとんど全てが、いきなりで唐突だ。
朝、目を覚ます、混濁から覚醒への連なりの経験は、実は特殊な日常の結節点であるのだが、知覚認識と、知覚経験の間で、この特殊をこの時とばかり投入し、知覚は徐々に染み渡るといった錯覚が支配することもある。実際には音が届き、光が信号として脳内でスパークしても、それが一瞬過ぎ去っても認識が及ばない気分や事情はある。時にはそうした世界を予兆として知覚がシンクロ同期し、アドレナリンが駆け巡り、半拍速く受け取るリズムに支配される。普遍的な知覚など想定すること自体間違っていて、固有で分かち合えない経験にすぎないと諦めればいいが、「構想」の場合、この「人間的」モデルを巡らねばならない。
ある構想を、個人的な事情で淡々と計画する時には、その構想の位置感というものが、計画の実現の可能性の大半を支配する。
と、また便座の上で、最近のプロダクトカタログを捲り、やはり剛胆と繊細の偏りの手類いと眺めてから、これらに均される精神というもののほうが気味が悪いと、数日前から発売を待つ行列を浮かべてから糞を垂れた。
手首を洗いながら、特殊に対応する特殊な仕立てを試すことは贅沢だが、それしかないかもと。
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