せっかち、慌てん坊という性情は、固有なものと考えるより、時代の速度感と捉えたほうがよろしいようだ。福嶋亮大という若い今風というよりちと古風な認識論(というより新社会人マニュアルに近い)を少々捲り、いたってシンプルな展開と自明をそのまま明示する「当たり前」も、戦略的であったとして、その記述の醸す読みの速度(音の聴こえ方)、選ばれた言葉とセンテンスなど、浅田とか柄谷の時代の速度とは幾分ギア比を落とした低速のしたたかさにふ〜んと、こちらの辿りもゆったりとしたものになる。
しかも内容が、記述の主軸が「時間」へ攀じられるとなると、なかなか可逆的可塑性を手法化した狡猾なものと受け止めることもできる。
こちらとしては、この若い戦略家の捉え方の云々よりも、この速度の差異、時代のスピードの差異、つまりは、世代の速度感の徹底した違いにしばらく思念を奪われていた。
似た体つきの人類の神経のパルス伝達は類として同じだから、体感も同じであると不安のない日々の中、各年齢の様々な時空を生き抜いてきた人間が、例えば同居し、組織化しているせいで、都度先導獣となったメディアや乗り物によって、馬面前の人参のような基準値に慣らされているけども、実はその体内時計ならぬ、植え付けられ成熟した、各々のスピード体感は、食事の傾向、趣味、生活のリズムなどへ染込んで、そもそも比較にならぬほど違うと考えれば、思考や理念の形態自体、皆が指差す球ではなく、実は紡錘型であったり、チューブであったり、共有する云われの無い出自があると考えたほうが自然だ。
自らの歩きながらあても無く眺めを放る、その速度が、実はレンズという認識態度の思考の進行に、大きく関わっているわけで、車をゆっくり動かして座席でカメラを構えた違和感を今更に憶いだす事になった。
だからどうやら、天からふいに降り注ぐような「達観」とか「悟り」といった、瞬時の知覚認識というのもあやしいわけで、愚鈍な速度なりの成熟は、気づかぬうちに、骨に染込むような「癖」のようなことであるのかもしれない。
老いた同窓会で、お前は変わらないなあと互いを眺める時に、おそらく出会いの最初に見いだしていた個体の中心の軸を、また指差して、その翳りない軸の成熟を知らぬうちに認めるしかないようなもので、同窓会に吹き渡る速度は、懐かしくもあり、酷く時代遅れでもあるけれども、このスピードに運ばれた誇らしさもそこにあるから、頑固が生まれるというわけだ。
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