たわいないひとりの人間の目でも、率直な環境と時代が映し出されると弁えはあった。同時に、限りあることだから、虚飾や捏造はやめたい。無理の無い反復でなければいけないと、進行に応じて、加わる戒めもある。傾向もあるだろう、反復から生まれる意地もあるだろうが、可愛いものだと笑うつもりで含めた。都度、新たな取り組みなどという大袈裟が沈んで、同じ場所にまた立っていると思うことへの訝りも消えた。検証を挟んで、その向こう側へ理念の道を敷くことも無駄のように感じてきた。やはりまた、しかしまた、と繰り返す、熱中や集中といった詭弁の肌着も着心地が悪くなり、朝起きるように、夜眠るように、飯を喰うように、糞を垂らすようにと、腹の底に溜まる反復から生まれる馴染みが、時々清涼へ導く程度で充分だと、時には抑制した無駄な仕草も許す。複数の都合が統合される一瞬であるが、点は木の実の結実と考えるより、複数がそのままの形で琥珀に貫入して在るようなものだ。
と、日々の過ごしの内の、取り立ててどうこう言うこともない行為の果てのような気分が、平明に広がって、あら、こうした立ち位置があるのね。気づく事が微笑ましい。整理を心がけ、単純に向かう指向が備えた目は、複雑を把握する力を鍛え、事実、シンプルをいかに複雑が支えているかを「見える」ようにと、スライドした位置を選ぶようになる。
「絵を描きたいでしょう」と人に云われ、その時は、ああ、描きたいと即答していたけれども、もはや描くことは馴染みの外にある。時間的に余裕があれば、プールで泳いだほうがいい。やはり、歩いてシャッターを押したい。今度はそう答えましょう。だが実は、比較すればその後のお楽しみの方へ、簡単に答えられない程度に欲望の塊が転がっていく傾きがある。
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