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クジラの背中に張り付いた葉

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 Boat / Le,Nam (1978~)を読みながら、ヨーグルトのような文体だなと、才能に脱帽しつつ堪能する。おそらく原文の音の響きもウツクシイのだろう。
 娯楽に甘んじて、長文のミステリーを、それしか手元にない監獄服役者の怠惰を倣うように辿っていたので、一層新鮮な味のよさに感じ入った。片付けの後から、ベッドの上、列車の中、カウチの中と連れ添い、意識的に速読を切断しゆっくり時々辿り返す遅延を与える。

 世代的にも辿った生からも邪推されるような、プラグマティックな環境認識を、批判的(感情的)に眺めるというタイプではない。率直にみつめる感度のよい官能視力が、虚飾無く反映するプロットの(レトリックが浮き立たない)、受け手からは絶妙と感じられる部分が、実は作家のあるがままの身体性のみで記述が行われているだけであるという、人間的な「育ち」、あるいは本来的な気質と直結して、得心を頷かせる。

 この国で似た世代の似た文体(気質)を浮かべるが、誰も横に並ばない。なるほど声の聴こえない作家ばかりなのか。

 けれども、一人称の語りの、小さな声で呟く声を、いつまでも聴いていたいと思う文体には、どこか覚えがあった。この記述の裏に配置される「語りの声」という文体が肝なのだろう。俯瞰記述の天の声はどこか虚位に塗れた綻びがあり、テンションの波の叫びの挟まれる周波数は、耳が痛くなる。会話文ばかりのTVを眺めているようなものには、精神的に疲弊する。聴こえてくる「語り」というのは「話し言葉」ではない。

 説明描写が失う光景の色彩や感触を、身体の動きの後、ふと縒り戻す一言の呟きの才能に聞き耳を立てて、わたしには必要なリラックスした時間を、もうしばらくこの若い作家に任せよう。


ナム・リー / Le,Nam

1978年、ベトナム南部のラックザーに生まれる。1979年、生後3カ月で、両親とともにボートピープルとしてオーストラリアに渡る。メルボルン大学卒業。大手法律事務所勤務を経て、渡米。アイオワ大学ライターズ・ワークショップに学ぶ。2007年プッシュカート賞、2008年ディラン・トマス賞、2009年オーストラリア・プライム・ミニスター文学賞、メルボルン賞ほか多数受賞。NYでハーヴァード・レビューの文芸記者を務めるとともに、2009年にはライター・イン・レジデンスとして英国イースト・アングリア大学に滞在。現在、英語圏でもっとも期待されている新人作家のひとり。
ー新潮社サイトより抜粋引用
 

速度

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 せっかち、慌てん坊という性情は、固有なものと考えるより、時代の速度感と捉えたほうがよろしいようだ。福嶋亮大という若い今風というよりちと古風な認識論(というより新社会人マニュアルに近い)を少々捲り、いたってシンプルな展開と自明をそのまま明示する「当たり前」も、戦略的であったとして、その記述の醸す読みの速度(音の聴こえ方)、選ばれた言葉とセンテンスなど、浅田とか柄谷の時代の速度とは幾分ギア比を落とした低速のしたたかさにふ〜んと、こちらの辿りもゆったりとしたものになる。
 しかも内容が、記述の主軸が「時間」へ攀じられるとなると、なかなか可逆的可塑性を手法化した狡猾なものと受け止めることもできる。

 こちらとしては、この若い戦略家の捉え方の云々よりも、この速度の差異、時代のスピードの差異、つまりは、世代の速度感の徹底した違いにしばらく思念を奪われていた。
 似た体つきの人類の神経のパルス伝達は類として同じだから、体感も同じであると不安のない日々の中、各年齢の様々な時空を生き抜いてきた人間が、例えば同居し、組織化しているせいで、都度先導獣となったメディアや乗り物によって、馬面前の人参のような基準値に慣らされているけども、実はその体内時計ならぬ、植え付けられ成熟した、各々のスピード体感は、食事の傾向、趣味、生活のリズムなどへ染込んで、そもそも比較にならぬほど違うと考えれば、思考や理念の形態自体、皆が指差す球ではなく、実は紡錘型であったり、チューブであったり、共有する云われの無い出自があると考えたほうが自然だ。

 自らの歩きながらあても無く眺めを放る、その速度が、実はレンズという認識態度の思考の進行に、大きく関わっているわけで、車をゆっくり動かして座席でカメラを構えた違和感を今更に憶いだす事になった。
 だからどうやら、天からふいに降り注ぐような「達観」とか「悟り」といった、瞬時の知覚認識というのもあやしいわけで、愚鈍な速度なりの成熟は、気づかぬうちに、骨に染込むような「癖」のようなことであるのかもしれない。

 老いた同窓会で、お前は変わらないなあと互いを眺める時に、おそらく出会いの最初に見いだしていた個体の中心の軸を、また指差して、その翳りない軸の成熟を知らぬうちに認めるしかないようなもので、同窓会に吹き渡る速度は、懐かしくもあり、酷く時代遅れでもあるけれども、このスピードに運ばれた誇らしさもそこにあるから、頑固が生まれるというわけだ。

複数の

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 たわいないひとりの人間の目でも、率直な環境と時代が映し出されると弁えはあった。同時に、限りあることだから、虚飾や捏造はやめたい。無理の無い反復でなければいけないと、進行に応じて、加わる戒めもある。傾向もあるだろう、反復から生まれる意地もあるだろうが、可愛いものだと笑うつもりで含めた。都度、新たな取り組みなどという大袈裟が沈んで、同じ場所にまた立っていると思うことへの訝りも消えた。検証を挟んで、その向こう側へ理念の道を敷くことも無駄のように感じてきた。やはりまた、しかしまた、と繰り返す、熱中や集中といった詭弁の肌着も着心地が悪くなり、朝起きるように、夜眠るように、飯を喰うように、糞を垂らすようにと、腹の底に溜まる反復から生まれる馴染みが、時々清涼へ導く程度で充分だと、時には抑制した無駄な仕草も許す。複数の都合が統合される一瞬であるが、点は木の実の結実と考えるより、複数がそのままの形で琥珀に貫入して在るようなものだ。

 と、日々の過ごしの内の、取り立ててどうこう言うこともない行為の果てのような気分が、平明に広がって、あら、こうした立ち位置があるのね。気づく事が微笑ましい。整理を心がけ、単純に向かう指向が備えた目は、複雑を把握する力を鍛え、事実、シンプルをいかに複雑が支えているかを「見える」ようにと、スライドした位置を選ぶようになる。

 「絵を描きたいでしょう」と人に云われ、その時は、ああ、描きたいと即答していたけれども、もはや描くことは馴染みの外にある。時間的に余裕があれば、プールで泳いだほうがいい。やはり、歩いてシャッターを押したい。今度はそう答えましょう。だが実は、比較すればその後のお楽しみの方へ、簡単に答えられない程度に欲望の塊が転がっていく傾きがある。

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