季節の巷の、やれ社会の組織だの学校だのといった雛形スケジュールに動かされる、直接の立場ではないが、振り返ってみれば仕舞終え立ち位置を踏み直すことをすれば、時間はそれぞれ節をそのはじまりとおわりに持つようだ。面白いことにその節の接合部分の、組み直される時間の隙間で、身体の不調がことんと起きて、それが花粉なのかウイルスなのかわからないままぐずぐずと立て直しの姿を模索する日々に重なるようにつきまとう。
サクラが咲いたという報告を列車の背で受けまだ寒い場所に来てから吹雪くこともあり、気温も下がり、一ヶ月は遡った気がする週があり、調べれば、サクラの咲いた場所でも気温は低い。気象の乱れが時節の進行を、身体に馴染んだものとズレるせいなのか知らないが、足踏みするような、行っては戻る潔さの喪失した気分をも、促すような気がした。
遮光の部屋で、手元をみつめる姿勢から夕方になって外へ出ると、開いたままの瞳孔が収縮し、残光の白が飛んで、骨っぽい景色のなか歩くことがあり、そうか、晴れることもあまりなかったなと、この時、数日、数十時間の淡い経過を実感することが、健全でない証と感じられる。
だがまあ、時間は進行する。この進行は、最近になって恨めしさと救いの両義的な意味合いがいよいよ強くなる。