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    <title>pedestrian thoughts</title>
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    <title>探索の海というイコンか</title>
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    <published>2010-07-22T20:32:13Z</published>
    <updated>2010-07-22T21:00:20Z</updated>

    <summary>　歩行の身体が刻々と纏う感応は抱えた網からどろどろ漏れるようなもので、気象や事象...</summary>
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        <![CDATA[<p>　歩行の身体が刻々と纏う感応は抱えた網からどろどろ漏れるようなもので、気象や事象に左右される体調と気分なども、掌に残った残滓をじっと堪えるようにみつめる誠実さを持ち合わせていない。</p>

<p>　関係の罠、あるいは観念の呪縛からなかなか簡単には自由になれないが、拘束の身に生まれるのは、探索という欲動に近い衝動であり、残された唯一の可能性であるといっていい。この探索が新たな罠と呪縛を呼び込むメビウスの環とならぬ工夫こそが、つまり、感応の諸々を都度ほとんど喪失する稚拙な歩行であり、探索を振り返る立ち止まりに生じる「眺め」の、鉱石の荒野、埋もれた事象が所々その一部を表出させている砂漠、いわば過去形の探索の海だ。</p>

<p>　罠も呪縛も浅薄な目的に、始まりから未来まで支配され、その言葉の中で既に終了している。ひとつの静止状態を、固有な観念、あるいは固有な音響に結ぶことは、罠を構築することに似ているので危うい。同じように、散乱併置された出来事は、時間的文脈の内在する性質（これは関係ではない）によって、時間経過と共に深みを蓄積させるので、アフレコのような翻訳的関性を与えること自体間違っている。</p>

<p>　無関係に散乱した探索の海は、他者性の世界として、自己と無関係に在る、あるいは在ったわけではない。探索の海を構想（イメージ）しないかぎり、その時に力学的矛盾を孕む光景は、欲動される感応と振り返りの眺めの中で、時間経過を超越する意識の気概を形成できない。</p>

<p>　だから偶然と閃きの断片を振り返る立ち止まりを促す歩行を、身体的にのみ持続することが肝心で、歩行のシステム化、観念化は、立ち止まらないマラソンとなってしまう場合もある。<br />
　<br />
　この歩行が、唐詩の漢文の併置となんと似ているのだろうと、朝方放心していた。</p>]]>
        
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    <title>徘徊</title>
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    <published>2010-06-21T23:24:36Z</published>
    <updated>2010-06-22T00:01:30Z</updated>

    <summary>　カメラを持たずに徘徊したのは、何時降り出すかわからない梅雨の季節となったせいも...</summary>
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        <![CDATA[<p>　カメラを持たずに徘徊したのは、何時降り出すかわからない梅雨の季節となったせいもあり、手ぶらの歩行が考えたよりも身軽で開放感に充ちたからでもあり、私鉄沿線の降りたことのない駅から地図も見ないで気侭に辻に誘われることが、それだけでなにがしらの新しいような充足が溢れたからでもあったけれども、ああ、それじゃあ此処に、カメラを持ってもう一度来てみようとかいった、当初の計画は全て潰れたような気分となった。この気分は悪いものではない。結局観光に似ているかしらとか、何か旨いものを喰わせる店はないかといった、別段目的を持ったわけでもない。記憶からすぐに消えてしまうような凡庸な徘徊にすぎなかったけれども、その反復からみえてくるものがある。</p>

<p>　対象、イコンといったような、目の前に対峙する出来事には興味はとことん失せたことに気づいた。時間と移動における環境空間のいわば「奥行き」のような「路」あるいは、その行方の陰影、初めて見る、土地での人の形、といった眺めの角度、あるいは、高揚するわけでなく水平に広がる風なみつめる気分の良さ、などといった、なんとも稚拙な修学旅行に訪れた地方都市の学生のようにきょとんとした目を持って歩いた。</p>

<p>　手間のかかる表象化の地道な作業の隙間の徘徊だからだったかもしれない。本来的にこうした無限反復が本性を貫いているなと、飽きもせずに淡々と行うこと自体から、糸を縒るように、観念から切り離された距離感のある瑞々しい言葉が立ち上がることがあり、意味など遠くに放って曲がり角で呟いたりするのだった。</p>

<p>　この都市は、狭い空間ではないし、時間経過による変化も激しいので、過去も現在に埋め込まれたまま放置されてある。さすがに立川より西には踏み込めなかったが、梅雨明けには未来からのトラベラーのつもりで八王子に降りてみようと思うのだった。</p>

<p>　荒川ではスケッチブックを持ってデートをした、輪郭すら失せていた記憶が新鮮に蘇り、いささか困惑し、五反田の知らない男の部屋で朝早く二日酔いのまま覚醒したあの時の、その前夜の詳細も浮かび、来た事がない筈の喫茶店でキース・ジャレットのケルンコンサートが流れたので、若くして病死した先輩の位牌の横に座る妹さんと、彼の声と笑顔が昨日会った人のもののように浮かぶのだった。</p>]]>
        
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    <title>テクノロジーの憂鬱</title>
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    <published>2010-05-22T12:27:59Z</published>
    <updated>2010-05-22T13:09:03Z</updated>

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        <![CDATA[<p>　最近は、宵の口迄もつれ込んだ錯綜を更に深夜に引きずり込んで強引な執拗、頓着をごり押しすることをやめて、早朝から昼前にかけて雑多業務を含む所謂精神活動を行うのが調子がよろしい。午後は奈落へ滑り落ちる感覚が若干あり、どちらかというと、処理遅延する感覚とのズレを、PCに任せて（とはいっても、その処理の仕上がりをいちいちつまらなく気にしながら）、大雑把な別へ手を染めるのが常となった。</p>

<p>　一昔前の、今からみればかわいいエンジンの処理速度が、当時の精神のスピードに照応していたわけではないが、そういった認識の重なりの世界に慣れていなかった分、好奇心や、その見慣れぬ世界への俯瞰の印象が、稚拙なテクノロジーに不満を訴え、こういう手法自体を捨て去る衝動には結びつかなかった。</p>

<p>　数千倍、数万倍といわれるデータの処理が可能となったけれども、日々新たに開発されるエンジンの処理速度の実感は、呆れるほど明瞭な差異に満ちており、あの時苦労して手に入れたエンジンが、こんなにも短命に心細いものとなると、何かテクノロジー自体、データ処理という必要は悪しき物であり、悪夢の中に居ると幾度も思う。</p>

<p>　道具を使う側が、いつの間にか、道具に振り回されているこうした流れは、妙な精神的孤立感を生み、精神などとうに失った非生物的なジレンマの回路を、時に甘く演出し、生の時空を喪失しているとも考えられる。</p>

<p>　テクノロジーありきの、その機能如何の遅延効果に寄り添うのは、移動の為に速度を得る事も同じであり、高価なレンズの集める光に従うのも同じであり、つまり、それらのテクノロジーがなければ、従う世界は現れないのだから、遠くから眺めれば不燃物を日々抱え込んでいる無知蒙昧な喧しい生物となるのだろう。</p>

<p>　幾つかの単焦点レンズテストを三年程かけてゆっくり行うことが先頭にあったわけではないが、歩いて行い、歩行を促された恩恵はある。この歩行は、レンズがなければなかったかと問えば、もう二十年もそうしている理由ではないと答えるしかない。幾つかのこちらの生の結節点にレンズテクノロジーが関与したことは認めるけれども、反復を可能にしたことはテクノロジーではなく、その結果へ投じた眺めの数の印象であり、時間とともに蓄積した印象の束は、テクノロジーを促す指向よりも、歩行自体の質を問う性格へ変容している。</p>

<p>　指を握り、キーを押す反射機能の、必ず遅延する苛立ちが、より軽量コンパクトで簡単なインターフェイスの考案に矛盾無くまっすぐ繋がり夢中となっている表象の裏側で、人間が動く生物である限り、ボタンを押してから遅延してアラーム音を確認し、遅れて扉が開くエレベーターに乗る日常の外の、荒野の中に身を潜めて狩りをする気配を押し殺した緊迫へ、歩み出す気概が頭を擡げることは、なんらおかしなパッションではなく、むしろ先鋭な現代的な生物衝動とはいえないか。</p>

<p>　</p>]]>
        
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    <title>土地</title>
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    <published>2010-05-02T15:50:07Z</published>
    <updated>2010-05-02T16:07:39Z</updated>

    <summary>　「この貝殻は何か」を浜辺で考えなかった人間は、死ぬまで抽象と無縁であり、「この...</summary>
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        <name>machidatetsuya</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://hitonoyo.com/pedestrian_thoughts/">
        <![CDATA[<p>　「この貝殻は何か」を浜辺で考えなかった人間は、死ぬまで抽象と無縁であり、「この貝殻は美しい」と感じた人間は、言葉や絵画や写真でその印象を残そうとしたけれども、同様に抽象には触れることはできない。これがまず彼岸である。</p>

<p>　「土地」の抽象を考えるに、「場所」とは幾分違った、養分の、脳髄まで垂直に立ち上がる気配の加減が、つまり視線の届く先という力。同時に跳ね返され、殴られるかもしれない排他を堪えるところまで、「土地」は、人間と凛然と決別しながらも、累々とした人間を下敷きに形成される。「場所」は固有名に従う。</p>

<p>　本来、無神経で、KYな世界として、実は、隣人が存在するように、土地は在り、その土地の供え物として、肖像が、あるいは群像が在る。だから、その土地は、固有でありながら、普遍を纏って、時空の蔑みを受け持つ寛容に耐えるというより、慣れて、土地らしさを増す。</p>

<p>　歩きながら、土地の此処と其処へ巡る思惟は、ある種明快な、思索の撓みを露にする。</p>

<p>　ここで記述する日本語としての、土地と場所の歴然とした差異は、抽象表象されるしかない。その基幹は、既に漢字に表象されるものであり、それ以外ではない。</p>

<p>ー<br />
土地（とち）とは、一般的には地表が恒常的に水で覆われていない陸地のうち、一定の範囲の地面にその地中、空中を包合させたものをいう。なお、河川や湖沼などの陸地に隣接する水域も含むことがある。地中の土砂、岩石等は土地の構成部分にあたる。<br />
ーwiki</p>

<p>　</p>]]>
        
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    <title>庭の部屋</title>
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    <published>2010-04-14T02:29:08Z</published>
    <updated>2010-04-14T02:47:55Z</updated>

    <summary>　屋根が、天井があったかどうかわからない。床は草の生えた地面だが、誰もそれが不自...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://hitonoyo.com/pedestrian_thoughts/">
        <![CDATA[<p>　屋根が、天井があったかどうかわからない。床は草の生えた地面だが、誰もそれが不自然であると思ってはいなかった。西側の壁は石でできており、そこに3メートル四方で、おそらく黒い炭化ケイ素の粒子が塗り付けられている。知っている友人が途中だがと振り返って、中央が塗り残された壁面を指差したが、こちらはここに塗りつけろと指図した憶えがなかった。</p>

<p>　庭の部屋の中央に、南から北にむけて古ぼけたもの干し竿のようなものがあり、それをまず取り外した。それから雑草を毟り、半分土に埋もれたテラコッタの鉢を取り出し、壁の内側を片付ける。どうやら、ここが展示会場であるらしかった。</p>

<p>　友人の塗り付けた壁面の炭化ケイ素を、これはやめると鉄ベラを使って削ぎ落としはじめると、シャンパングラスを片手にした見知らぬ人が、ドアを開けて次々に入ってくる。ふたたび地面を見下ろして、どうにもできない岩もあったが、何もなくなったことに、とにかくほっとしていた。</p>

<p>　肉体から汗が流れ上腕が痺れたようだった。誰かに汚れたものを着替えるように促され、ドアの向こう側に連れ出されるとそこは、いたって通常の、空調が効いた建築物で天井も照明もあり、床も固い水平面に人の姿が映り込むように磨かれている。ここで振り返りあの庭の部屋だけが、異様な恣意の空間だ。どうやらヨーロッパのどこかのミュージアムだと、記憶を喪失したことに馴染みがあるような気楽さで気づいた。</p>]]>
        
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    <title>長春</title>
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    <published>2010-04-08T18:35:25Z</published>
    <updated>2010-04-11T07:10:28Z</updated>

    <summary>　「黒い犬」をまだ読み終えることができないのは、切迫感が睡眠を短くさせベッドでは...</summary>
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        <name>machidatetsuya</name>
        
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        <![CDATA[<p>　「黒い犬」をまだ読み終えることができないのは、切迫感が睡眠を短くさせベッドでは数ページ捲って眠りに落ちる日を続けたからだが、サクラの開花を聴きつつ移動した後、気象のベクトルは幾度も翻り暦を遡行する気分となり、夕方になれば20℃も気温が下がることもあり、ようやくビックバンの逆転の世界縮小が知らぬうちに緩やかに始まった、人は土から生まれだす。そんな時間の逆流の錯覚も手伝った。娘の卒業式から随分と時間が経過しているのにまだ花は咲かない。長い春だと感じる。</p>

<p>　数日前に写真愛好家が不思議な発光体を撮影した画像と記事を新聞で眺め、この気象だからと根拠の無い得心が即座に落ちた。再び移動の準備をしながら、ふとあたりを見回し室内の、乱れた書棚などを見やって、リニューアルをしなければいけない。昨日までの切迫とは違った脅迫めいた観念がまとわりつく。</p>

<p>　両親が回覧板を二週かけて十三軒に巡らす際に、誰かが必ず回覧を遅らせる話を夕食時に話すので、それよりも情報の伝達にそんなに時間がかかって意味があるのかと尋ねると、否、隣近所の息災を確かめる意味もあるのよと、ご近所の、あそこにはこういう人がいる。いた。などという詳細を聞く羽目になり、多くの家はこちらと同様、成長期の新開地に家を建てた世代の息子や娘は家を出て、老いた夫婦や独り残った老人の住まう町となっているとまた、ゴーストタウンとはこういう成立もあるのだなと、声に出さずに喉元で転がしてから、母親の呟いた、ー私にとっては此処がふるさとだからーという言葉が、数時間後また耳の奥で聴こえた。</p>]]>
        
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    <title>列車</title>
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    <published>2010-03-24T00:17:27Z</published>
    <updated>2010-03-30T12:25:38Z</updated>

    <summary>　段ボール箱ひとつは、オフィスの資料ダイエットの為の書籍とデータロムだけとし、他...</summary>
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        <name>machidatetsuya</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://hitonoyo.com/pedestrian_thoughts/">
        <![CDATA[<p>　段ボール箱ひとつは、オフィスの資料ダイエットの為の書籍とデータロムだけとし、他ふたつの機器の荷造りを終え発送してから手持ちの荷の隙間に、カウチの背に横に重ねていた古井の「神秘の人びと」「始まりの言葉」を差し込んだけれども、列車の中では、「やはりまた」というデジャヴュをともなって車窓ばかり眺め、本など捲らなかった。</p>

<p>　Martha Argerich (1941~)の1965年のショパンと、Maria João Pires (1944~)を、iPodをクリックして、交互に聴き、また車窓をみやっていた。なるほど、独りのピアニストを聴くと、例えばショパンが姿を顕すが、ふたりの同じショパンを聴くと、ピアニストの輪郭が明瞭となり、演奏家の生活の景色へ欲望が伸びる。上野、大宮、高崎、軽井沢しか停車しない車内は季節柄、年度末の休みで帰省する風な学生や、口元に溜息が残っているような、いかにも子を独り立ちさせたばかりの母親たちが、空虚な虚脱を隠さずに静かに乗車しており、連休明けの平日のせいもあるのだろう、子供たちの騒がしさなどなかった。</p>

<p>　幾つもの事情が固有な世界を小さく形成する人びとの静かな座席の中にいると、車窓の隅に映り込んだその表情や姿が、こちらのこれまでの時間の中で符号を探すような動きをして、あの時の俯きや、今憶えば失笑する程度の困惑の重量が、当時のままに蘇生して、笑いを消すようでもあった。</p>

<p>　真昼の列車だから、尚の事、時間が混濁し茫漠とするのかもしれない。到着駅のプラットフォームから歩き出す、人の背を見て、見ず知らずの「そちら」へ、何か声をかけたくなり、そういえばいつだったか、同じような場所で、何気なく振り返った時に、まさに今こうしているこちらの表情の瞳と視線があったことを、くっきり憶いだした。</p>]]>
        
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    <title>声</title>
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    <published>2010-03-03T09:48:00Z</published>
    <updated>2010-03-03T12:59:42Z</updated>

    <summary> 　歩きながら考えていたのは、ジャン=マリー・ストローブ (Jean-Marie...</summary>
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        <name>machidatetsuya</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://hitonoyo.com/pedestrian_thoughts/">
        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="030310.jpg" src="http://hitonoyo.com/pedestrian_thoughts/img/030310.jpg" width="940" height="627" class="mt-image-none" style="" /></span><br/>

　歩きながら考えていたのは、ジャン=マリー・ストローブ (Jean-Marie Straub 1933~)とペドロ・コスタ (Pedro Costa 1959~)の、Où gît votre sourire enfoui? (2001)のある執着（集中）にて生成した差異と同一、あるいは重なりより生じる新たなもの。同時に彼らを存在さしめる環境とは一体どういうことなのだということだったが、憶測の域を超える筈がないと諦める歩きだった。というのは歩いた時間が短すぎた。数日から数週に渡って歩かねば考えたことにならぬ内容だった。絶えずシチリア編集時のJMSの声（言葉でない）が、意味を持たずに反響するようで、動かぬ鉱物のように黙り込んだ視線というカメラであるPCの、ある種、過去への憧憬といった寛容のレンズの解放と、ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレの、古くさいが発酵した手法をそのまま（賛辞やリスペクトなど含まず）カッティングする編集の、突き放した新しい物語の生成の手法との、相反するような、然し一体と構築されないとそれが目撃されない位置感で、それぞれの「世代」が顕著に繰り返して脳裏に残滓と滴っているものだから、歩き戻ってむしろ白濁した脳裏の声の反響を確かめるようにテキストを繰ってから、言葉を失うように力んで自分の歩行の現像を行うと、やはり色など思っていない。はじめて嫌悪していた彩度を高めたりもしていた。<br/>

　6週間で150時間のデジタルビデオの撮影は単純に計算すれば、週休二日で、一日5時間の撮影を意味する。限定した場所での撮影にしろ、その果てしなさ、近接感はぼやっと推測できるけれども実現を具体的に想定すると尋常ではないことがわかる。人間の限定した行為であるから尚一層異常であるともいえる。そこから導き出されるものは、寛容とはいったが、全く別の次元の事であることも納得できる。ただ、その時間に横たわる緊張は、琴線のような細さではない。錆び付こうが日々太くなり切断できない緊張の膨張ともいえる。「批判的に且つつききりで近くに居る」という手法の短期発酵（相対的に言えば）は、その持続がもたらす逆の導き（長期に渡って距離を保つ）を断つ力を意志として握りしめていなければいけなかったろう。<br/>

　時空を切り取る映像という錯覚は、他愛もない経験だけれども、その経験に魂を投じるとなると話はかわる。ある「異変」（現実）に対してそれをすくいあげる意志が、映画という輪郭の辺境、あるいはその向こう側に商業映画への封じ印のような輝きでぎらっと置かれてある。独り言の呟きも消え風に流されてだが考え続け歩いたせいで、こちらの知らぬうちに怯えるシャッターの、季節もわからないまま、撮影者の存在が消えるような眼差しが残ってしまったことが、だが面白い。<br/>

　やはりフィクションだと歩行のうちで確認する。スクリプトに立体的（会話の隙間の髪を揺らす風など）な考察を加え100mmを手に入れよう。]]>
        
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    <title>水をのむように歩く</title>
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    <published>2010-02-11T18:36:02Z</published>
    <updated>2010-02-11T19:21:14Z</updated>

    <summary>　オフィスのトイレに座ると置かれてあった目の前に開かれたページは幾度も辿ったもの...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://hitonoyo.com/pedestrian_thoughts/">
        <![CDATA[<p>　オフィスのトイレに座ると置かれてあった目の前に開かれたページは幾度も辿ったものだったが、のんびりと文字を追うと、今此処でというなぜか新しい臨場感で認識が広がり、以前もこうだったかと疑問も生まれる。あるいは見落としていた把握力の無い自分に呆れる。一度辿っただけでは済まない理由は、つまり、いずれもう一度と、最初の辿りではその読み物の本質的なメッセージの全的な理解が足りないから処分せずに書棚に置く選別が働くからであり、用のないものは棄てている。選別されたものは憶測の果ての再読に応えてくれるものばかりとは言えないが。</p>

<p>　読むことで捕まえた筈だった解釈の時間差には、絶えず微細なズレがあり、都度、水分補給の爽快感が新鮮であるような意味合いで、文字から声や新たな想像が、確かに生まれる。水を飲むような身体的な希求に即応する現実感のある喉を潤す実感が、最近はつくづくありがたい。</p>

<p>　明らかに質の違う、音の違う、キュッキュッと歩む、パウダースノーの舞う雪国を、レンズに氷着することもおかまいなしに、夜も朝も歩いた時に、水を飲むような実感と似た歩みだと幾度も思ったものだ。寒さに凍えて根をあげることなどこれまで一度もなかったのは、そういった育ちだからだろうか、血の巡りが良いからだろうかわからないが、とにかく不都合を感じたことがない。これもひとつのギフトだ。靴の中に入り込んだ粉雪も、爽快の一部となっていた。</p>

<p>　そして面白いことにそうした実感のある歩みの中では、ぽつんぽつんと視線が届く対象が、壁であっても人であっても、存在の現実感が膨れ上がるようにしてこちらに届く。<br />
　</p>]]>
        
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    <title>Google Earth</title>
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    <published>2010-01-17T14:08:58Z</published>
    <updated>2010-01-17T23:11:39Z</updated>

    <summary>　聞き覚えのないような地名を子供が呟く妙な夢のせいもあり、Google Eart...</summary>
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        <name>machidatetsuya</name>
        
    </author>
    
    
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        <![CDATA[<p>　聞き覚えのないような地名を子供が呟く妙な夢のせいもあり、Google Earthのモジュールのアップデートをして、サハリン、カムチャッカ、アリューシャン列島を辿って、アラスカから、シカゴ、ケベック、ロンドン、ベルリンのバンゼーまで、休日の午後はずっと、音楽を聴きながらぐるぐるとラップトップで眺めていた。</p>

<p>　一時期、まだ十代の頃、世界地図に顔をすり寄せて過ごした時間は記憶にあるし、書店や図書館で更新される衛生地図のグラビアを、ヌードとは筋の違った興奮で捉えていた。このカタカナの地名をその場所ではどのように正確に発音されるのだろう。などと妄想を加えて、当時はまだ認識の足りない世界を漠然と丸く無限に膨張する水滴のようなものとして感じていたようだ。忘却している筈の地名が、夢の中で唐突に発音されるということが、何か真上から差し込んだ光のようにも感じる。</p>

<p>　おそらく残りの人生も関与しようがない場所の、克明な静止画像を眺めながら、でも街並の光景の鮮明さに、何度かうたれたように見入っていた。</p>

<p>　ユーザーデータの追加のせいで、情報が加わり、小さな島のこんな場所でと驚きながら、高画質の添付画像を追いかけて、光景のその奥に置かれているような、音を聴きたい気持になった。</p>

<p>　行こうと思えばまだ訪れることはできる。「ありゅーしゃん」と発音してみて、やはりどこか記憶がくすぐられる。</p>

<p>　しかし、ストリートビューの画質の劣悪さはなんとかならないものか。それとやはり、この画像は日々過去となるゆえ、現在という更新手法に関して、googleはどういうつもりなのだろう。繰り返し、同じ場所に車を走らせるのかしら。</p>]]>
        
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    <title>僕はあるく</title>
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    <published>2010-01-08T19:15:54Z</published>
    <updated>2010-01-08T19:16:58Z</updated>

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        <![CDATA[<object width="500" height="340"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/vS6wzjpCvec&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/vS6wzjpCvec&hl=ja_JP&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="500" height="340"></embed></object>]]>
        
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    <title>街に出る</title>
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    <published>2010-01-06T14:12:07Z</published>
    <updated>2010-01-06T14:47:09Z</updated>

    <summary> 　長野電鉄桐原駅までの、10分ほどの道を歩いて駅の時刻表をみると、長野駅方面行...</summary>
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        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="010510.jpg" src="http://hitonoyo.com/pedestrian_thoughts/img/010510.jpg" width="940" height="718" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>　長野電鉄桐原駅までの、10分ほどの道を歩いて駅の時刻表をみると、長野駅方面行きが17:00。その前が16:23と、37分の間があり、腕時計は4時半を回ったところだった。</p>

<p>　プラットホームには、寒風を遮断する待合室というものがなくて、秒針の経過と気温の低下が結ばれるような夕方に半時間もこの場所で電車の到着を待つなんてどうかしている。最初は滅入った。だが対策を考える事を放棄し取り留めも無くあたりを散漫に眺めながら、数十年前から幾度も目にしていた倹しい駅舎は変わらずにあるのだと気づいて、とにかく目的も無くこの駅から電車に乗っていたことをあれこれ憶いだした。</p>

<p>　移動の起点が此処だったのかしらと、そういえば、上京を決めて、憶い返せば吹き出してしまうような荷を持って、幾度も山の向こうを漠然と睨むように列車の窓に額を預けていた。あの時の記憶が克明になりそうになると、中年の身体に収まる筈の意識だけが逆流するような気配に、少々慌てるのだった。</p>

<p>　駅前や途中の繁華街へと電車に揺られ、「街に出る」。そしてかなり早い終電の時刻に飛び乗って、この駅に降り、家までの夜道を歩いた俯き加減が幾度も微妙な差異を伴った「帰り道の時」がくるくる巡り戻るに任せた。</p>

<p>　おかしなもので、半時間も真冬の夕刻、プラットホームで列車を待ったけれども、待つことを忘れていた。気づけば、いつの間にか数人が同じようにコートの襟を立てつつ両手の中に白い息の玉をこしらえて立っている。なんだか作り物の映像の中に座っているような感覚が、列車の到着で壊れるような気がした。</p>]]>
        
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    <title>病中の見極め</title>
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    <published>2009-12-29T22:07:19Z</published>
    <updated>2009-12-29T22:42:26Z</updated>

    <summary>　普段、息災を気にとめず過ごす時には、手に余る書物の辿りが、病の中の身体の崩壊感...</summary>
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        <name>machidatetsuya</name>
        
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        <![CDATA[<p>　普段、息災を気にとめず過ごす時には、手に余る書物の辿りが、病の中の身体の崩壊感の中でなぜか別筋を引き寄せることがある。見失っていた「見極め」のようなものであるのが、また妙だが、崩壊のもたらす身動きのとれなさが、一筋に向かうのかもしれない。</p>

<p>　こんこんと気管支のあたりの痛みをともなって咳をしながら、娯楽へ身を預ける気持になれないのは、本来娯楽性とは、奔放な生の力を漲らせた上で享受するものだからだろう。かといって、ただぼんやりと無心を遊ばせることは、病みの中へダイビングするような無謀であるので、こちらが選べることはつまるところ、何か只管な、他者の俯いて目に光の灯ったような眼差しを眺めることしかない。</p>

<p>　「神秘の人びと」 / 古井由吉 / 1996年発行を、鼻水と咳で口元を捩らせつつ書棚から取り出して捲ったのは、吉増剛造の透谷への探求と、平出隆の伊良子清白へのにじり寄りから促されてはいた。初読の時には、ふ〜んと出版当時、還暦を迎える2,3年前の作家の年齢などを、漠然と考えていた記憶がある程度で、そうした年齢の人間の目の灯りと、当時は次女が生まれたばかりの、錯綜と自制の混乱を旺盛に過ごしていた自身との落差で、一読後振り返らずにいた。世紀が変わってから再読したが、その時は、こちらが猛々しい策士とならざるを得ない状況があり、これもまた見極め時を失っている。</p>

<p>　修道士アエギディウス (Aegidius)が、神の顕現を目撃して信仰を棄てる。というマルティン・ブーバーの記述に関して、作家はそのパラドクスを探求するわけだが、病中の見極めは、この「寓話」の、所謂、極東の凡庸な解釈ではなく、ある普遍の「気づき」の象形として、この身に流れ込んだ。カメラを覗く日々と、繰り返して残された静止画像を眺める日々との、同期も生まれる。</p>]]>
        
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    <title>Winfried Georg Maximilian Sebald</title>
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    <published>2009-12-13T16:01:22Z</published>
    <updated>2009-12-13T16:14:21Z</updated>

    <summary>Winfried Georg Maximilian Sebald (1944~2...</summary>
    <author>
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    <category term="w・g・sebald" label="W・G・Sebald" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://hitonoyo.com/pedestrian_thoughts/">
        <![CDATA[<img alt="sebald.jpeg" src="http://hitonoyo.com/pedestrian_thoughts/img/sebald.jpeg" width="311" height="296" align="left" vspace="5" hspace="5"/>Winfried Georg Maximilian Sebald (1944~2001)<br>
-Sebald's works are largely concerned with the theme of memory, both personal and collective. They are in particular attempts to reconcile himself with, and deal in literary terms with, the trauma of the Second World War and its effect on the German people. In On the Natural History of Destruction (1997) he wrote a major essay on the wartime bombing of German cities, and the absence in German writing of any real response. His concern with the Holocaust is expressed in several books delicately tracing his own biographical connections with Jews.
His distinctive and innovative novels were written in German, but are well-known in English translations, principally by Anthea Bell and Michael Hulse, which he supervised closely. They include Austerlitz, The Rings of Saturn, The Emigrants, and Vertigo. They are notable for their curious and wide-ranging mixture of fact (or apparent fact), recollection and fiction, often punctuated by indistinct black-and-white photographs, which are set in evocative counterpoint to the narrative rather than illustrating it directly. All of his novels are presented as observations and recollections made by Sebald while travelling around parts of Europe. They include a dry, mischievous sense of humour.
Sebald is also the author of three books of poetry: For Years Now (2001), After Nature (1998), and Unrecounted (2004).-wiki<br><br>

土星の環ー出版社からのコメント<br>
<私>はイギリス南東部を徒歩で旅し、過去何世紀にもわたる様々な破壊の跡を目にした。海辺で、資料館で、<私>の連想は、帝国主義時代のオランダの過去、ワーテルローの戦場跡を訪れた記憶、バルカン半島における虐殺の歴史、アフリカ大陸でのベルギーの搾取や略奪などへと続いていく。<br>
<私>は旅先で多くの人びとと出会い、過去の様々な人びとを想起し、その生涯を辿る。コンゴで植民地主義の狂気を目の当たりにし、『闇の奥』を書いたコンラッド、「理想の国民」たる蚕を偏愛した西太后、フランス革命前後の激動をくぐり抜け、回想録『墓のかなたから』を書いたシャトーブリアン......。<br>
最後に<私>は、中国からヨーロッパにもたらされ、各国で国家事業として育成された養蚕に思いをはせる。養蚕を国家意識高揚に結びつける企図は、百年後ナチによっても鼓舞されていた......。<br>
思索や連想の糸がたぐられ、ヨーロッパ帝国主義による破壊と自然がもたらした災厄、古今の文人たちの生涯を辿っていく。誰も振り返らない往古の出来事、忘れられた廃墟が、時空を超えて呼び戻される。境界がなく、脱線と反復を真骨頂とする、ゼーバルト独自の世界。解説=柴田元幸ーamazon<br>]]>
        
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    <title>walking assist</title>
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    <published>2009-12-13T15:12:46Z</published>
    <updated>2009-12-13T15:41:03Z</updated>

    <summary>Legs On: Honda&apos;s Walking Assist Devices ...</summary>
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        <name>machidatetsuya</name>
        
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    <category term="ブレインマシンインターフェイス" label="ブレインマシンインターフェイス" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="受動歩行" label="受動歩行" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="歩行アシスト" label="歩行アシスト" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
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        <![CDATA[<object width="400" height="300"><param name="allowfullscreen" value="true" /><param name="allowscriptaccess" value="always" /><param name="movie" value="http://vimeo.com/moogaloop.swf?clip_id=4156066&amp;server=vimeo.com&amp;show_title=1&amp;show_byline=1&amp;show_portrait=0&amp;color=&amp;fullscreen=1" /><embed src="http://vimeo.com/moogaloop.swf?clip_id=4156066&amp;server=vimeo.com&amp;show_title=1&amp;show_byline=1&amp;show_portrait=0&amp;color=&amp;fullscreen=1" type="application/x-shockwave-flash" allowfullscreen="true" allowscriptaccess="always" width="400" height="300"></embed></object><p><a href="http://vimeo.com/4156066">Legs On: Honda's Walking Assist Devices</a> from <a href="http://vimeo.com/user562128">Gizmodo</a> on <a href="http://vimeo.com">Vimeo</a>.</p><br>
<a href="http://www.honda.co.jp/ASIMO/assist/index.html">HONDA ASIMO 歩行アシスト</a><br>
<a href="http://drei.mech.nitech.ac.jp/~fujimoto/sano/walk_jpn.html">受動歩行の動画</a> / 名古屋工業大学　藤本研究室・佐野研究室<br>
<a href="http://www.cns.atr.jp/icorp/topic1.html">ブレインマシンインターフェイス</a> (ICORP)]]>
        
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