May 2010アーカイブ

テクノロジーの憂鬱

 最近は、宵の口迄もつれ込んだ錯綜を更に深夜に引きずり込んで強引な執拗、頓着をごり押しすることをやめて、早朝から昼前にかけて雑多業務を含む所謂精神活動を行うのが調子がよろしい。午後は奈落へ滑り落ちる感覚が若干あり、どちらかというと、処理遅延する感覚とのズレを、PCに任せて(とはいっても、その処理の仕上がりをいちいちつまらなく気にしながら)、大雑把な別へ手を染めるのが常となった。

 一昔前の、今からみればかわいいエンジンの処理速度が、当時の精神のスピードに照応していたわけではないが、そういった認識の重なりの世界に慣れていなかった分、好奇心や、その見慣れぬ世界への俯瞰の印象が、稚拙なテクノロジーに不満を訴え、こういう手法自体を捨て去る衝動には結びつかなかった。

 数千倍、数万倍といわれるデータの処理が可能となったけれども、日々新たに開発されるエンジンの処理速度の実感は、呆れるほど明瞭な差異に満ちており、あの時苦労して手に入れたエンジンが、こんなにも短命に心細いものとなると、何かテクノロジー自体、データ処理という必要は悪しき物であり、悪夢の中に居ると幾度も思う。

 道具を使う側が、いつの間にか、道具に振り回されているこうした流れは、妙な精神的孤立感を生み、精神などとうに失った非生物的なジレンマの回路を、時に甘く演出し、生の時空を喪失しているとも考えられる。

 テクノロジーありきの、その機能如何の遅延効果に寄り添うのは、移動の為に速度を得る事も同じであり、高価なレンズの集める光に従うのも同じであり、つまり、それらのテクノロジーがなければ、従う世界は現れないのだから、遠くから眺めれば不燃物を日々抱え込んでいる無知蒙昧な喧しい生物となるのだろう。

 幾つかの単焦点レンズテストを三年程かけてゆっくり行うことが先頭にあったわけではないが、歩いて行い、歩行を促された恩恵はある。この歩行は、レンズがなければなかったかと問えば、もう二十年もそうしている理由ではないと答えるしかない。幾つかのこちらの生の結節点にレンズテクノロジーが関与したことは認めるけれども、反復を可能にしたことはテクノロジーではなく、その結果へ投じた眺めの数の印象であり、時間とともに蓄積した印象の束は、テクノロジーを促す指向よりも、歩行自体の質を問う性格へ変容している。

 指を握り、キーを押す反射機能の、必ず遅延する苛立ちが、より軽量コンパクトで簡単なインターフェイスの考案に矛盾無くまっすぐ繋がり夢中となっている表象の裏側で、人間が動く生物である限り、ボタンを押してから遅延してアラーム音を確認し、遅れて扉が開くエレベーターに乗る日常の外の、荒野の中に身を潜めて狩りをする気配を押し殺した緊迫へ、歩み出す気概が頭を擡げることは、なんらおかしなパッションではなく、むしろ先鋭な現代的な生物衝動とはいえないか。

 

土地

 「この貝殻は何か」を浜辺で考えなかった人間は、死ぬまで抽象と無縁であり、「この貝殻は美しい」と感じた人間は、言葉や絵画や写真でその印象を残そうとしたけれども、同様に抽象には触れることはできない。これがまず彼岸である。

 「土地」の抽象を考えるに、「場所」とは幾分違った、養分の、脳髄まで垂直に立ち上がる気配の加減が、つまり視線の届く先という力。同時に跳ね返され、殴られるかもしれない排他を堪えるところまで、「土地」は、人間と凛然と決別しながらも、累々とした人間を下敷きに形成される。「場所」は固有名に従う。

 本来、無神経で、KYな世界として、実は、隣人が存在するように、土地は在り、その土地の供え物として、肖像が、あるいは群像が在る。だから、その土地は、固有でありながら、普遍を纏って、時空の蔑みを受け持つ寛容に耐えるというより、慣れて、土地らしさを増す。

 歩きながら、土地の此処と其処へ巡る思惟は、ある種明快な、思索の撓みを露にする。

 ここで記述する日本語としての、土地と場所の歴然とした差異は、抽象表象されるしかない。その基幹は、既に漢字に表象されるものであり、それ以外ではない。


土地(とち)とは、一般的には地表が恒常的に水で覆われていない陸地のうち、一定の範囲の地面にその地中、空中を包合させたものをいう。なお、河川や湖沼などの陸地に隣接する水域も含むことがある。地中の土砂、岩石等は土地の構成部分にあたる。
ーwiki