2009年12月アーカイブ

 一週間と少しで年が変わる。この小さな宿場町も所々でそれなりの慌ただしさが、人々 の足元や顔つきにそれとなくあらわれ、駅前には注連縄や正月飾りを売る屋台も出て、コンビニエンスストアーにはクリスマスの飾りが大袈裟に点滅し、暗かった街が夜遅くまで 裸電球で照らされるようになった。初雪の日から数日は、交互に雪の降る日が続き、今年 は雪が多いと至る所で口にされるようになったが、それきりであとは快晴となり、家の影 に必ず残っていた白いモノもすっかり消えたが、朝夕の冷え込みは激しく、やたらにくっ きりと星が広がり、夕空を見上げる駅前の人々の必ず両手を口にあてる横顔には、いっそ 雪のほうが落ち着くと、白い季節を待つような色が見てとれた。
 最初は乱暴に放られた界隈としか受け止められなかった街並みも、今では懐かしさを伴った佇みを、電線の撓みや消えかけた路面標識などに感じ取って、店や駅や行き交う人々の貌も見覚えのあるものとなり、この街の固有名を支えて形成している様々を身体で実感できるようになっていた。


 森田商店に電話して部屋を出る事にしたので、不燃物として捨てるには心苦しい卓袱台とストーブを金はいらないから引き取って貰えないかと頼んだ。森田は電話口で宅急便で送ることの出来る所は無いのかと手放すことに異論を挟んだが、考えてから無いんだと答えると、わかったと了解してくれた。両親の住む郷里へ送ることもできたが、この部屋の誂えは他に移動できないと考えた。布団は処分しますから置いて行ってください。事務所の跡取りが快く引き受けてくれた。

 不動産屋で決めた日までまだ二日残っていたが、一切の処理終われば明日にでも出ようと思っていた。一切と言っても、汚れた下着と、風呂桶程度で他に何も無い。地図と写真とカメラなどは、大きめのバッグにすべて入った。

 跡取りは折角張り替えた壁が勿体ないな。なんだかあの部屋を片付けに来て貰ったみたいで家賃まで頂いて。否、全てこちらの都合ですから。珈琲は旨かったと言うと、いつでも落としておくから飲みにきてください。その言葉に甘えて何回か事務所に呼ばれ、雑誌を手にして数時間ソファーに座って雑誌を捲った。年末に仕上げる施工を急がされている跡取りは、現場での指揮の愚痴を、充実したような顔で笑って零した。

   

 薄暗さが残り、街頭の灯りも西の空を背景にすればまだ煌々と見える朝早い気温が零下 となる時間を好んで歩き、シャッターを押した。三脚を使わなくては手ぶれするかもしれ なかったが、構わずにあたりが灰色に明るく霞むまで、肺の中まで凍らせて歩き、人々の 姿がちらほら見える頃部屋に戻りまた眠った。昼前には起きて枕元の文庫に手を伸ばした。
 カメラ屋で幾つかの白黒ネガのプリントを頼んだ。ささやかな置き土産として、世話にな った人々に渡そうと思いついた。私鉄に乗りデパートに出かけてプリントの額縁とマット 紙を送る人間の顔を思い出しながら選ぶことが頗る楽しかった。谷田部に影響されたと簡 単に考え、創作とはいえないが、こちらの出来ることはこの程度だがと部屋に並べ、選んだプリントを入れ替えたりした。
 村沢のバストアップを引き延ばそうか迷ったが、浅ましい気がして、結局彼女が的確に批判した消滅の気配の漂う無人の街の朝を選んで、会社宛に郵送した。送り主の住所は、引き上げる部屋のままを記した。  

 跡取りと森田は恐縮して受け取ってくれたが、谷田部は、うーんと唸って、どこで焼い たと尋ねた。駅前のカメラ屋を教えると、自分で焼かなきゃだめだ。と文句を添えて、じ ゃあ飲むかと勝手に送別会を決めた。  
 ほぼ毎日の夕食を摂って、気象やテレビの事件などを気楽に話しかける蕎麦屋の主人 に、はじめて蕎麦を誉めると、即座におや戻られるんですかと悟られたが、戻るわけじゃないと言えなかった。  


 約束の時間だから焼鳥屋に行ってちょっと飲もうかと思った矢先、ドアがノックされた。 開けると見知らぬ女学生らしい女性が頭を下げた。祖父が危篤の寝床で、連れて来いとこの住所を弱く告げるので言付かった。申し訳ありませんが、いらしてくださいませんかと、 走ってきたのだろう赤い頬で息を切らして途切れながら言う。危篤とは大変だが、こちらにそういった縁者などいませんがと首を傾げると、お風呂でご一緒だったとかと、続けら れて刺青の石屋の老人とわかり、急いでその娘の後について、有坂の老人宅へと走った。

 夕食の買い物を下げて歩く主婦達が振り返るほど娘の走りは早く、こちらも後れまいと顔を歪め人々の肩を避けて走った。娘は角で立ち止まって、道行く人が振り返る声で躊躇わ ずにこっちですと叫んで誘導した。  
 駅前から斜めに、こちらの部屋からは、逆の筋を登った街道沿いから、崩れた山の麓へ とかなり入った古い道筋は、歩いたことがなかった。走るにつれ夕暮れが一気に夕闇と変 わり黒いシルエットとなった平屋の老人宅の玄関に辿り着いて振り返ると、灯りが点々と 散らばる暗闇が街を覆っていた。  

 突然に申し訳ありません。こちらですと、顔をだした娘の母親らしい女性は、他には何 も言わずに老人の伏している部屋まで先導するのだった。娘のはあはあとあげる息を背後 間近に聞きながら、枕元に座る白衣の医者の脇に腰を下ろした。老人の足元には、赤い髪 の青年と禿げ上がった作業着姿の男が正座してこちらに頭を下げた。  
 医者は小さく何かあったら呼んでくださいと囁き、男達、女達と共に部屋を出た。目を 瞑った老人をみつめて呼吸を整え、布団の上に出された血管の浮いた右手を握り、どうし ました、このところ銭湯にいらっしゃらないからと語りかけると、ああと弱く手を握り返 された。  

 まったく情けない  
 頭の中が破れて曇っちまった    
 随分前に 
 家を出た息子がいてな  
 多分あんたぐらいだと思う  
 あのバカ  
 それっきりで    
 またあんたと酒が飲みたかったなあ  
 呼び立てて済まなかった  
 なんだかな  

 片目を開け、目玉をこちらへ向けて、ゆっくり途切れながらも、断片に意味を注ぐよう に老人は話した。数日見なかっただけで、此程老いるものかと、老人の撓んで幾筋にも襞 になった首は、骨が浮き出て言葉を洩らすことも不自由に見えた。  

 街を出ます  
 あらかた片づきました  

 そうかと言って老人は肯き、目を瞑って弱く続けた。    

 がんばれよ     

 危篤の病人に逆様を言われて、こちらは大きくはいと答えていた。老人は何度か肯いて、 こちらの握った手を離し、表情を柔らかいものへ変えた。しばらくそのまま老人の顔をみ つめながら、家出した息子の気分が自身を覆うのに任せた。とうさん。ごめんさない。  

 吐息が寝息になってから胸元に出された腕を布団に仕舞い、音を立てぬよう障子を開け て廊下へと出た。床の板に直に正座した赤い髪の青年が立ち上がってまた頭を下げ、こち らへと別の部屋へ促した。  
 作業着の男が医者と連れ添ってこちらと入れ替わると、母親らしい女性がソファーに座 るよう慇懃に勧めた。ゲンちゃんもどうぞ。と赤い髪の青年に言うと、否オレはおやじさ んところにいます。と部屋を出た。一緒に走った娘が茶を持ってあらわれ、差し出した。 リビングはおそらく母親と娘の趣味だろう清潔な落ち着いたシックな色で、あの老人の住 まいとは到底思えない。彼ならば木彫りの熊とか、甲冑があってもおかしくないと当て擦 った。  

 ありがとうございます  
 お風呂で背中を流して貰ったって  
 何度も嬉しそうに話していました  
 安藤さんのところに住んでいるから  
 呼んで来いって言うので  
 失礼とは思いましたが  
 娘を行かせました  
 娘はすぐに走り出してしまって  
 一昨日に倒れました  
 お医者さんには入院しなさいと怒られましたが  
 本人が嫌だというもので  
 どうぞ  お楽にしてください  

 ご主人はと尋ねると、5年前に他界しました。私たち縁があって、結婚した後、この有 坂の養子になって、本当によくしてもらいました。母親も、横に座った娘も、成程老人の娘、 孫にしては上品な顔つきで、似ていない。親子を養子に迎え入れた時に、腹を据えて 家のことを好きにさせたのだろう。住まいの整えや趣味に老人のやさしさが見えた気がした。 然し危篤の床だと、近親の邪魔となることに気づき、ご老人はご子息と私を重ねられ たようで、逆に励まされてしまった。眠ったようです。腰をあげ、何かありましたら安藤 の事務所まで電話をくれるよう頼み、明日、もう一度お見舞いに参ります。玄関先で、ち ょっとゲンちゃんこの方を送って行って頂戴。母親の言葉に首を振り、歩いて帰れます。 お大事にと坂道を下った。老人の連れ合いのことは何も聞かなかったが、家出した息子と こちらを重ね合わせることは、病床ならば不自然でない。酒の席や、銭湯での会話が、何 かを思い起こさせたのだろう。だが、思わず口にしたこちらの倒錯も、そこには衒いや恥 ずかしさはなかった。自身の父親の病床を見舞う事などこれまでなかったから、いつも頑 強な面影しか浮かばなかったが、年老いて母親と二人で在りし日の子育てを懐かしんでい る昼下がりの、寂しそうに丸めた背が現れた。  

 そのまま谷田部の店に行き、送別会だと集まった三人に事情を話し、数日は見舞いをす ることを告げると、跡取りが、部屋を使っていいと申し出たが、先程駅前の旅館で予約し たからと断った。酒の席は有坂老人の話に及んだが、焼鳥屋が、あのお父ちゃん大袈裟だ から、復活するよとまとめて、皆がその気分に膨れ、本日は貸し切りですと書かれた紙の 貼ってある焼鳥屋で、終いには跡取りが料理などもして、おそくまで酒を呑んだ。
 森田が 差し出した引き取り代金と書かれた封筒には、きっちりと卓袱台とストーブを買った値段 のまま入っていた。結局最後まで三人とも、これからどうするんだといった種類の事を、 一言もこちらへ寄越さなかった。
 谷田部に渡した広角レンズで撮影した焼鳥屋の鉄の カウンターの写真を、皆が誉めた。谷田部は、設計と、施工がいいからなと、でも嬉しそ うにはにかんでいた。  
 
 馴染む間もなかった、気も無かったぽかんとした白い部屋を見回してから、ドアの鍵を した。隣で、コンニチワと声をかけられた。見知らぬ女性が、同時に隣のドアの鍵をかけ ていた。会ったことのない隣人に世話になりました今日でここを出ますと自分の口から出 る言葉を可笑しく感じながら、いえこちらこそと随分知った物腰でにこやかに微笑む隣人 を記憶のどこかで喪失しているような錯覚が生まれた。酒に酔った夜にでも総菜の差し入 れを頂いたかもしれない。  
 
 有坂宅からの帰り道に予約した宿の主人は、中庭に窓の面した静かな部屋まで案内し、 こんな旅館ですのでご自由にお使いくださいと、夕食のメニューを説明して、お酒はいか がしましょうと尋ねた。  
 古い旅館ではあったが、この街では、大きな観光やビジネスのホテルは無いから、客は 自然と駅前の此処を選ぶのだろう。奥には増築された棟が見えた。お銚子二本を頼んだ夕 食は、魚料理が並んだ簡単なもので、おかわりはせずに、白い糊の効いたシーツの布団に 沈むように寝入った。仰向けになって天井を眺めると病床の老人の瞳が重なった。  
 
 老人は峠を越し、こちらも二日続けて見舞った。選んだ写真の入った額縁を持って行っ た二日目には、昼飯をご馳走になり、そのまま家族や職人達とたあいもなく話して、その 夕方には、老人から孫娘とゲンタとの関係を茶化す軽口が零れて、これでひとまず大丈夫 だろうと次の日には列車に乗るつもりで、有坂の家人と宿にその旨を伝え、朝早く起きて、 最後にこの駅前だけでもとカメラをぶら下げて散歩などした。相変わらず雪の降る気配は 無かったが冷え込んで、霜などが影に白く立った。いつもと変わらない仕草でシャッター を押した。人気無い線路にカメラを向けると、ファイダーの中に白い大きなぼんやりとし た太陽が頭を出し、その柔らかい光に刺激されてクシャミがでた。  

 さっぱりした心地で旅館の朝食を摂ってから宿の支払いをしている時に有坂の母親から 電話があり、老人が朝方四時過ぎに息を引き取ったと聞かされた。通夜から葬式まで出席 させて貰うことを告げて、安藤工務店に出向き、跡取りに、喪服を貸して貰えないかとい うと、自分も通夜に行くのでだめだと断られた。葬式には大勢顔をだすだろうと言うので、 他に借りることを諦め、貸衣装屋を教えてもらい、懐かしいような感覚で黒い背広に腕を 通した。老人の死は、予測していたせいか大きな感情の高ぶりは無かった。  
 
 有坂宅までの坂道の途中で、森田、安藤、谷田部の三人と出会い、連れ添って有坂の玄 関へ入った。ゲンタと職人は女たちを手伝って動き回っていた。老人は前日のまま布団に 横たわっていたが、顎は真下に落ちて、口には薬の染み込んだ綿が詰められ人間ではなく なっていた。老人の足元の襖が取り払われて、隣の和室と繋げられ、料理や酒などが用意 されてある席に焼香を済ました三人は座り、先に来ていた近所の人間と簡単な挨拶を交わ して、早速コップに手を伸ばしている。  
 焼香をしてから廊下に出ると、窓の外に、見舞いの時には気づかなかった自宅に併設さ れている石材の工房が見え、戒名を彫り残した墓石が幾つかあった。まさか、自分のもの など作らせなかったろうな。いささか不謹慎無礼なことを巡らして、通夜といっても近し 3詭 い者たちの席だからこれで失礼しようとすると、母親に呼び止められ、リビングに通 された。  

 息を引き取る前  
 おじいちゃんが  
 あいつが帰ってきて  
 謝ったよ  
 と言いました  
 お気を使っていただいて  
 ありがとうございました  
 
 お寿司を食べていってください。娘を呼び、ゲンちゃんも食べなさい。廊下に顔を出し て、ちょっと向こうにいっています。と出ていった。似合いのカップルに見える二人が座 ると、ゲンタが、雨の日は申し訳ありませんでした。鼻血がでていると知っていました。 そのまま走って仕事に戻って気になっていました。おやじさんに叱られました。  

 これまでこちらには寡黙を守ったようだったゲンタが娘のような眼差しを向けて話した。 今考えれば、あの鼻血のおかげで、この街での暮らしを謙虚にはじめられたよと答え、そ れきり黙って寿司に手をだした。  
 娘の注いだビールを、赤いマグロを頬張ったまま流すと、離れた部屋に横たわる老人の カラダの刺青が浮かび、老人の傷物にされちまったよという声が聞こえ、何か異様に柔ら かい不思議な食感の中で唐突に老人の喪失感が溢れ、味が消えた。    
 出されたものを頂いて、ゲンタと娘にご馳走様と言って、老人の顔を見て帰ろうと腰を 上げた。広げた和室には、先程より人間が増えて、爪先を立て片膝の母親が、客にビール を注いでいた。さすがに通夜だからひっそりとした弔いであったが、谷田部たちの押し殺 したような笑い声も漂っていた。老人の枕元に座り、白布をとり、すでに生き物ではなく なった老人の、魂の抜けた顔を眺めると、この男の生きてきた煌めいた時間をもっと聞き たかったのにと、関わりの薄かったこちらにも悪戯に哀しいものがこ込み上げてくる。  

 満開の桜の散る中、祖母を霊柩車で山奥の焼き場に送った春が思い起こされた。片田舎 の告別式の、母屋のたたきに並んだ告別客の、扇状に並んだ靴を眺めていた。そこから離 れて、お教を唱える坊主の草履がきちんと先を揃えて並べられ、何かそれが腹立たしいの だった。  遠方に散って所帯を持った叔父達は、臨終に立ち会う覚悟で数日前から帰省して、まだ 大丈夫だなと連日の酒の席で、やはりあの時も、明日には一度戻ろうかなと祖母の丈夫な 体を明るく話した翌日の午前に、五人の子供達を床に集めて祖母は逝った。叔父達の背の 隙間から、祖母の顎の真下に落ちるのを見て、魂が抜けた瞬間がわかった。末の叔父が、 「かあちゃん」とこれまで聞いたことのない幼児の声で叫んだ。通夜には、叔父達が代わ る代わる冷たくなった祖母を抱きしめ、添い寝をし、泥酔して弔った。こちらも孫の筆頭 であったから、祖母に可愛がられた記憶が溢れ、生者の無力さに涙が流れた。  
 火葬場で名前を呼ばれ、見てみろと祖母の燃える身体を小さな窓から覗いた。後ろから、 腹のあたりの黒く燃え残っている場所は腫瘍だろうなと教えられた。諦めがつくからと肉 親は交替して覗いたが、長女だけは厭がった。肉が燃え切って大きく張って残るあばら骨は、 祖母の逞しさであり、本質だと感じていた。  
 白い布を顔に被せ、手を合わせて立ち上がり、振り返って目が合った母親に頭を下げて、 ではこれでというと、こっちへきなさいよ。まあ座れ。こっちこっち。と三人に呼び止め られが、首を振り、母親に告別式は明日ですかと聞くと、三人の隣りに座った背広の男が、 そうです。こちらで、お葬式をやって、ここからご遺体を火葬場まで運び3詭ます。と事務的 な説明をした。葬儀屋らしかった。考えてみれば、墓石の制作を生業としていれば、馴染 みに葬儀屋もいるだろうが、通夜の席で、順序正しく説明されるのが疎ましかった。  

 再度頭を下げ、私はこれで失礼しますと部屋を出て、玄関で靴を履くと、背後にゲンタ と娘と母親が指を揃えて、ありがとうございました。と深く身を折るのだった。恐縮しな がら有坂宅を背に坂道を下り、そのまま小春へと歩いた。  
 
 小春のママは寡黙だった。こちらもビールを飲んで、年末年始は開けるんですか。頓珍 漢なことを投げた。葬式が終われば、列車に乗って、この街を出ます。頼みもしない白玉 小豆の皿を出されて、甘い菓子と酒を交互に口に運んだ。  
 友人が、突然亡くなった知らせを受けたことを、床の玉砂利を眺めて憶い出していた。 一人ではない。三人の面影が浮かんだ。いきなりな病気で高校の頃のじゃれて遊んだ同級 生と、一つ上の先輩。彼は就職が決まってバイクで転んで逝った。もう一人は、中学の同 級で、高校から大学、彼の割と早い結婚まで会う機会もなかったが、二、三度の同窓会で 顔を合わせたことはあった。彼の車を販売する仕事を聞きつけて電話を掛け、出物はない かとこちらから尋ねていた。  
 彼の妻もよく知った同じクラスの綺麗で大人しい女性だった。無沙汰の時間は、会えば 消えるようだった。二人の娘と三人目に男の子を育て、正月には我々の世代にとっては見 本のような家族揃って着飾った年賀状が届いた。何度か同級の他の友人等と一緒に炬燵で 鍋を囲んだ。十四、五の頃を正確に覚えていて、あの時お前は泣いてたなといきなり言わ れて、戸惑いに似た記憶が降り注いだこともあった。結婚する間際に、腹を切って内蔵を 摘出し、それですっきり痩せたし、酒も控えた。決定に曇りがない明朗な静かな男で、人 生を早くから弁えているような愛妻家だった。そういえば安い中古車を更に安く売ってく れた上、頼まないのにタイヤの交換を無料でしてくれた。だがそこまでで、家族同士の付 き合いというものはなかった。まだ互いに若かった。  

 夏の終わる夜、同じクラスだった女性から電話があり、訃報を聞かされた。その女性は 亡くなった男の妻の友人で、多分誰も知らないからそちらから知らせてほしい。近い連中 数人に電話をすると、冗談にしては質がわるいぞと、電話の度に怒鳴られた。  
 数人は通夜に駆けつけたが、こちらは足が竦んで行けなかった。告別式には、同じクラ スだった黒い者達が方々から集まり、まだ残暑のきびしい日射しの下で黙して群れながら 互いに途方に暮れた目つきを交わし会っていた。突然の事故であるとか病に倒れたならば 納得はいくが、一体どうしてだと、通夜に行った一人に聞くと、詮索するなと戒められ、 暗黙に弁えていた。  
 二年後の夏の終わりに、亡き彼の未亡人から墓参りに行ってくれないかと連絡があり、 最初に電話してくれた女性と三人で、市街地から離れた墓地まで車を走らせた。先に逝く なんて許せなかった。未亡人はそう言って、でももう大丈夫。三人で墓石の前で酒を飲んだ。  

 ママがふいに、アリサカのおじいちゃんがねえ。一度私を誘惑したことがあるのよ。と 零した。そりゃあ私とは二十近く離れているけど、ダンディーな人でね。あなたと同じ位 の時この街に来たらしいわ。それから三十年。それ以前の事は一切口にしなかった。奥さ んは早くに亡くして。背中の彫り物も、みんな怖がるからって、見せたがらなかった。そ ん3詭なに見たいのなら布団の中でだって。まっすぐに私を見るから嬉しかった。  
 瞳がぼやけた風に遠くを眺めながらママは、薄く笑みを浮かべて話すのだった。店の隅 には、純白の霞草がこんもりと飾られていた。  

 今日は、これで仕舞いにしましょうとママから言われて店を出て、そのまま深く冷え込 んだ夜の街を歩いた。前を行く男の手に提げられた包みを眺め、今夜がイブで明日がクリ スマスと気づいた。  
 翌日の葬式では、末席で坊主のお経を聞いて、棺に入れられた老人に献花し、母親にど うしてもと頼まれ、市の火葬場まで付き添った。縁者と共に車に乗り込む前に、谷田部が、 聞いたよ。お父ちゃんが死ぬ前に、あんたを呼んだんだってな。息子と間違えてさ。と小 さく話しかけた。間違えたわけじゃないんだ。と答えてそのまま乗り込んだ。

 白く焼けるまで別室で簡単な飲み物を用意されたが、手をつけず外へ出た。市街地から 車で山を越え林に囲まれた一方通行の火葬場で、都会の近代的な炉が幾つも並ぶものと違 ってひっそりとしていた。駐車場の脇のベンチに座り、空を仰ぐと、建物からひとつ突き 出た煙突から白い煙が昇りはじめていた。肉を天に昇らせて骨を残すわけだ。  煙草を銜えて胸に大きく吸い込むと、老人の幾つかの言葉がこちらに染み渡る心地がし た。 雪が降らなくてよかったと思った。  

 骨まで拾ってよいのかわからなかったが、ここまで来れば、残された家族に従うしかな いと決めて、膝のあたりの白い小さなものをひとつ箸でひろって壺に入れた。  帰りの車の中で、母親が、娘があなたをお義父さんの息子だと思っているんです。一言 いってやってください。障子の外でゲンタは、こちらの洩らした言葉を聞いていたのだろう。

 わかりましたと答え、縁者だけの食事の席で、娘の隣りに座り、多分おじいちゃんは、 得体の知れないまっとうに生きていないようなワタシを見て、家出した息子さんと重ねた んだよ。銭湯では、なんとなく背を流し合った。その前に焼鳥屋で腕の傷口をみせてくれ た。あなたのお父さんが亡くなって、一気に実の子を想う、そういう気持ちになったんだ ろうね。すると娘は、あなたが本当の叔父さんでなくても、私はそう思うことにします。 おじいちゃんにもそうしてきましたから。向かいに座ったゲンタに、小春で老人が自慢げ に君のことを話してくれたと言うと、食いしばった顔をして小さく肯いた。宿まで車で送 ってくれたゲンタを待たせて、古本だがよかったら読んでみてと、残りの文庫を渡した。


 宿泊の延長を頼んだ旅館の主人に礼を言い、靴を履いていると、谷田部があらわれ、リ チャード・セラの画集を、持っていってくれとあの宮島の手提げ袋から取り出した。  
 本当は、自分の作品集だといいんだけれど無いからさ。あんたがオレの作品を受け止め てくれた最初の観客のような気がしてさ。何か照れるように、言うのだった。森田には、 さっちゃんの葉書のこと話したよ。やつはそうかいとそれだけだったけど、やつもこっち もそれで何かすっきりした。お父ちゃんの通夜の時そんな事話した。あんたに言われたよ うに、いつか個展を開くよ。どこかで聞きつけて観に来てくれ。部屋にあんたの写真飾った。 悪くない。被写体がいいからな。  
 
 焼き鳥旨かった。作品制作頑張ってください。たまには千束に帰っておふくろさんに顔 をみせてやりなさいよと付け加えると、肩を揉んでやる。と谷田部は素直に答えた。  

 宿を出て歩き始めると、ふわふわと柔らかいものがちらつきはじめた。手のひらに乗せ ると結晶が美しく残った。  

 手提げを持ったまま、駅前から踏み切りを渡って、いつだったか通り過ぎたことのある クルミ理容店という床屋のドアを開けた。小太りの主人がすでに冬休みになったのだろう、 まっすぐに鏡に映った自身をみつめる利発そうな小学生の髪を丁寧に刈っていた。  
 ありがとうございました。めりはりのある声で頭を下げた小学生がドアを走りでてから、 どうしますかと尋ねられ、短くさっぱりと答えていた。椅子が倒され熱いタオルで顔を覆 われた。主人がカミソリを研ぎながら、今日はやっと積もるな。という呟きを零した。   

 カミソリの刃が瞼のしたまで舐めるように運ばれる度に、この小太りな主人に全てを預 けているようなものだと、切り裂かれても構わないような身の投げだしをして、この秋を 巡り返していた。頑なに自身を特殊へと閉じる切っ掛けとなった「喪失」という名のブラ ックボックスの蓋はいつのまにか開いていて、全身が痛んだはずの光景や想いまでが、柔 らかい温もりを纏って控えめに記憶の池に漂っている。この街でひっそりと息づく固有な 魂がこちらのどこかに交錯したからだろうか。手拭いで顔を都度拭って向き合う朴訥稚拙 なこちらの反射に、真摯な魂がその灯りを投げ返してくれた。人の存在それ自体が、紆余 曲折を経ても尚、歪みや矛盾を越え本来的な香りとなって、再び人に降り注ぐという当た り前に気づかされた。そしてこれが、これからも生きる為の自らの魂を確かめることとな った。  

 剥いたゆで卵のような顔が鏡に映り、脇に立った小太りの主人に、お客さんちょっとア ブナイね。と薄くなりかけた脳天を櫛で梳かされると、鏡の中の顔は、はにかむような、 子供の笑顔になって崩れた。

雪の日 2

 小さな岬の先端まで続く路の突き当たりにレストランがあったが、閉められて窓には簀 の子のような板が覆われ、手前に広がる駐車場には薄く雪が積もって足跡も無かった。脇 から岬の下の波打ち際まで岩を削ってつくった細い道を降りると海水で激しく腐食した手 すりのある壊れたコンクリートの階段があり、その下には近場で漁を営む程度の小さな船 がシートに覆われ縛り付け引き上げられてあった。
 真上から真っ直ぐに日射しを落とす季 節には大勢が訪れてこの磯で楽しく戯れるに違いない。海面と同じ高さの足場が離れて海 上に突き出た岩まで続き、季節の厳しい乱暴な波が時々覆い被るように白く砕けた。  
 遠くに穏やかに広がる浜が見え、海水浴場だろうか、人も船なども見あたらなかった。 岬の真下の岩を選ぶようにして歩み、磯を覗き込めるコンクリートに立って振り向くと、 村沢が錆びた手すりを掴んで立ち止まっている。    

 こんな季節には来たことがないわ  
 温泉に行こうなんていうから    
 でもなんだか凄いわね  
 夏に泳ぎにきたことがあるけど  
 全く別の場所のようだわ    
 気をつけて  
 落ちたら冷たいわよ  

 海水に手を差し入れて、指先を舐め、一度飛沫を身体に被ると、後ろから叫ぶように村 沢が声をかけた。指を指して、向こうまでいこうと誘ったが、首を横に振った。  
 海藻などで滑りやすい足場を辿って、下半身を濡らしながら大きな岩まで歩んで、また 海中を覗き込んだ。大陸からの漂流物も浮いて表面は乱暴であったがその中は、透明度が 高く、見てはいけないものまで見えそうな気がした。飛沫と打ち寄せる波の音に隠れるよ うに大勢のどよめきのような、あるいは子供たちの歓声のようなものが聞こえた。
 
 誰も訪れないような場所を探して小さな川を遡ると、橋の下で馬が死んでいた。本当の 記憶か何かのイメージのすり替わりかはっきりとしないが、ひっくり返って膨れた腹を空 に向け四肢を固く上に突っ張って、首がおかしな方向へ曲がっていた。友達は怖がって走 っていったが、こちらはいつまでもみつめていた。死骸を見たことで興奮して更に上流ま で歩き、落雷で裂け中が空洞になった樹を探し当て、その中に入ると足の長い見たことの ないような昆虫が指先を乗り越えて這い出した。此処を秘密の基地にしようぜと振り返る と友達はすでに走り去っていた。短い夕立が落ちて樹の穴にも吹き込むことが判るまで、 帰らずに此処で住んでやると座り込んで思ったものだ。様々な視線を逃れるように誰もい ない場所を探すことを繰り返してきた。  

 吸い込まれそうな深い青と緑が交錯した海の底に、これまでのこちらの生の根拠が沈ん でいる。頭をゆっくり水の中へ差し入れた。海中で瞼を開いて深く澄んだ海底の沖へと下 る暗がりへ首を捻り、このまま息を止めて眺めることができれば、いつかきっとあの遠い 果てへ歩む白い足が見える気がした。  
 立ち上がってジャケットの下のシャツで頭を拭き、水平線を眺め、遠くに船舶の影をみ つけたが、此処からの距離というものがまるで掴めない。岩の間に輝いたミドリ色のハン グルの印刷されたガラスの破片を手に取り、ポケットに入れた。  

 今度はわたしが決めるわよ  
 この辺には温泉が無いのよ  
 来た路を戻るか  
 海岸沿いを西へ走れば  
 蜃気楼の海へアルプスの土砂を運ぶ川を上りましょう  
 あら 
 綺麗な言葉よね  
 でもあの路は工事中だったかしら  

 岬の上まで垂直に登って肩で息を吐き、駐車場のエンジンをかけた車の中でロードマッ プを広げて待っていた村沢は、タオルをこちらに渡してからハンドルを回した。濡れた靴 を脱ぎ綿パンツの裾を膝まで捲り上げシートを倒して任せるよと言うと、頭を海に入れた でしょう。凄い格好だったわよ。泳ぐのかしらと思ったわ。見ているほうのことも考えな さい。  
 カーステレオから流れるホーミーのメドレーを、産み落とされるよりずっと以前に聴い ていた感覚で懐かしく身体に巡らせながら目蓋を閉じた。傍にいると眠くなる女性に惹か れる。何かを想い出そうとしながらハンドルを握る村沢の方に頭を傾けて、惹かれるので はなくて、ただ眠くなるだけかもなと、睫毛のむこうに見える放られたような黒い海を時 々薄く広げた目元で遠く望みながら眠ってしまった。  
 目を覚ますと、車は停車して隣りには誰もいない。起きあがって周りを眺めると、巨大 な岩の中にいた。ここは何処だと、靴を履き、車の外へ出ると思いがけない寒さに身が竦 んだ。目の前に所々雪に覆われた渓谷があり、巨大な岩の横に座り込んだ村沢をみつけた。近寄って後ろからオレも小便しようかなと声をかけると、そのまま振り返ってひどいわね 宝石を探しているのに。
 怒られた。翡翠の貫入した岩が此処から海まで転がって砕け散り、摩耗され加工されたようなかわいい翡翠を砂浜の中拾うことができる。此処はいわばアル プスの裂け目だった。簡単にはみつからないわ。立ち上がった村沢は、驚いたでしょう。 ここは何処だろうって。目の前に垂直に切り立つ岩盤は四、五十メートルはあるだろうか。否ケタが違うか。相対的にそのスケールを理解できない。夏には、クライマーの練習場所 になるのよ。見てるだけで怖い。この岩も大きすぎるから濁流が流れる度に上流へ向かう のよ。下が削られて逆様に進むの。理屈では判るけど印象では狂っているでしょう。何度も来たことがあるのかと聞くと、部屋には鉱物のコレクションがあるわ。水晶の転がる場 所も知ってるのよ。車の時計を見ると3時間は過ぎていた。ここからちょっと行くと秘湯 があるのよ。翡翠を諦めてエンジンをかけた。  
 運転を代わり、ポケットから磯で拾ったガラスの欠片を、輸入ものの宝石だよと村沢の 手のひらに置くと、アリガトウと素直に受け取るのだった。
「輝キニ導カレヨ」村沢はガラスを光に翳して小さく呟いた。  
 隣のナビゲーターの指示通り走らせると山襞の中ポツンと湯煙にその輪郭をぼかされた 温泉旅館が見えた。大丈夫だってと走って戻った村沢は車に乗り、そのまま旅館の駐車場 へ移動していった。宿の人間がこちらへどうぞと声をかけたので、荷物も持たずに入った。  車の暖房で岬で濡れて冷えた身体は温められていたが、露天の湯に身を伸ばすと凍った ままだった身体の何かが溶けて流れ出すような心地がした。チェックインには少し早い時 間だったが、取材で訪れたことがあるのだろうか村沢が頼み込んだらしかった。湯の中で そういえば飯を喰っていない凹んだ腹を撫でた。村沢と共に酔って倒れ、部屋で抱き合っ た日から二週が過ぎた週末だった。まだ髪に海水の名残があるような気がして湯舟に頭ま で潜り思い出していた。  

 あの日の雪は前日のような初々しさの無い硬質な雪で、歩くとキュっと音がした。路面 を擦るような雪掻きの音もしない。このままの気温であれば凍りつく。それを恐れるよう な慌てぶりで、徹底した雪の移動を皆がしていた。工務店の前で跡取りも加わった雪掻き が行われていたので、シャベルを借りて手伝った。工務店の脇にある駐車場に村沢の車が これも雪を被ったまま置かれてあったので、その旨を跡取りに言うと、了承してくれた。 建物から放射状に雪を除いてから、そのまま村沢の車の雪もはらった。  
 森田の赤い部屋にいくかいと尋ねると、村沢は何処と昨夜のことをよく覚えていなかった。週末だから仕事が休みだが、一緒に警察にはいくわ。でもお昼頃でいいでしょう。と だけいって紫陽花に潜った。部屋に残した彼女の腹の具合を考えて、森田の店で、ついで に湯飲みやら皿やら茶碗やらを買うつもりでいたが、赤い部屋を出て、部屋には戻らずに 駅前まで歩いていた。
   
 赤い部屋は、白熱の小型スポットライトが幾つか壁寄りの天井に取り付けられ、輪郭のはっきりしない楕円が壁に斜めに落ちていた。部屋に本来在るべき柱は現在の壁の裏にあ って見えないのだという。床は畳をとりはずして、フローリングに変えた。家具などは置 かれていない十畳の箱で窓はない。西側にあったものを、これもまた隠した。聞くと安藤 工務店が施工の一切を行って、設計に谷田部が絡んで、それを森田の妻が条件とした。床 と天井はひっくり返しても変わらない深い茶色の同じ色の板が敷きつめられ、壁だけが隙 間のない深紅の壁紙で、厚い光沢のある高価なものらしい。谷田部のプランは最初赤いコ ンクリートとあり、それだけはできないと断った。谷田部が安藤工務店のタカシに要求し た壁紙は、海外から取り寄せた。妻はこのことを無邪気に喜んだ。無論谷田部を最初は信 用していた。若い妻の上等な趣味を誇らしく思ったこともあった。  
 イベント会場か、スタンドバーにもなるだろう徹底した構成は、個人の家に含まれるも のとしたら些か大袈裟で無理がある。而も、四つの壁全てに、大小様々な森田の妻の作品 がぎっしり飾られてある。小春で聞いた時には、まず趣味の花やら静物などの習作を思った。そうではなくとも、谷田部が教えたのだから構成的な抽象もあるかもしれないと考えた。だがこれほど一貫したどうしようもないような毛糸の端くれの集積とは予想しなかった。大きさの異なる水玉や色違いが画面にびっしり並んでいる。油絵具で描かれていた。 妻は、作品の数だけスポットライトを取り付けるとごねたらしい。谷田部がそれを戒めた。  
 いっそのこと、入り口を別に作って、画廊にでもしてしまえばと言うと、腰を曲げたよ うな老人がいるばかりのこんな片田舎、誰も来ない。笑われるだけだよ。老人でなくとも、興味は持たないさ。森田は、妻の我儘をきいた後は、随分の出費だが、色っぼい寝室にで もすればいいと高を括っていた。  
 部屋の改装の青写真を妻がみて、拍車をかけられたように絵を描きだした。何度か谷田 部の柿の木のアトリエで徹夜もしたらしい。彼女は谷田部の信者だった。自分には手伝う 事が無いのでひたすら店を片付けた。若い頃手にした溶接の技術を思い出し、店の棚を堅 牢に繋ぎ続けた。妻がのめり込むのと同じ時間を店に費やした。これまでの切ない食い扶 持さと投げやりだった商売に対する気持ちが変わった。これは妻のおかげともいえる。客 の態度も変わったような気がした。森田は、谷田部と妻が閑孫を持つことはあり得ないの だと、こちらが尋ねる前に説明した。  
 谷田部は男色家だった。数年前まで二人で住んでいた。周囲には兄弟と言っていたが似 ていない。焼鳥屋で違うだろと聞いたら、あっさり恋人だよと教えてくれた。若い森田の 妻は、それがまた宇宙人のようでたまらなかったらしい。赤い部屋が仕上がってからは、 自ら赤い服を着て作品を並べては外し、また並べていた。それを繰り返してくれるばかり と思っていた。妻が狂っていたとしても、毎日赤い部屋に座っていればそれでよかった。 壁に作品を並べ終えて、姿を消した。  
 小、中、高校と、此処から車で山を超えた山村で過ごした森田の妻は、卒業して農協あ たりの事務職を地味に働いて、社会も世界もわからぬまま惚れられて森田に嫁ぎ、一緒に 出かけた焼島屋の壁にあった奇妙な絵の虜になった。他の客が罵倒すればするほど、作者 の谷田部が輝いて見え、森田に甘い声で習い事を願い出て、谷田部の排他的な唯物論を叩 き込まれた。わけもわからず絵具やら筆やらを買い込んで、出鱈目を丹念に描く。谷田部 の貸し出す本は読む振りをして放られてあった。とにかく自分の手で毛糸のクズを集め置 くことに没頭した。  
 店のことなどひとつも手伝わなかったし、近所の寄り合いにも顔を出したことはない。 台所にも立たないので都度怒ったが、怒りながらそういうことに、森田の方が慣れてしま った。何度か遠い場所で行われた展監会やコンクールにも出品したという。そしてすべて 落選していたが、苦にしている風でもなかった。  
 神経症の女性の作家を浮かべて、こういうかたちもあり得ると言うと、森田はアイツは 駄目だよ才能などない。馬鹿だから。身体は凄かったが。と目元に振れたような濁りのあ る言葉を真下に吐いた。  
 近付いて作品を眺めると、折り紙を折る無垢で壊れやすい幼児の手つきが見えた気がした。この幼気な指があの壁の痕跡の主なのだと重ねると、手のひらに絵の具を塗って窓よ りの壁にもたれた女の貌が仏像のように含みを持って月明かりに照らされるイメージが流 れた。自らも知りようのない衝動と仕方と性に素直に従ったまでなのかもしれない。唐突 に目覚める凄まじい顕れは誰もが潜在的に持つと考えれば、森田の赤い部屋への改装を許 した事も、愛情というよりそういった事に対する擁護となるが、然し森田当人の認識はそ こまで及ばなかった。そこまで達観する必要はなかった。森田の情愛に答えたのは、女の 怖ろしいような無邪気とも言える。それが何故か羨ましい。  
 この部屋を巡る全ての人間の固有であることの差異、軋みが、ズレたまま折り重なった。森田の妻は、今頃年相応に同世代の友達と何処かでカラオケなどやっているような気もした。  
 いつまでも待っているつもりなのか。と森田に尋ねると、戻らないのはわかっている。 この部屋を潰して元に戻そうとも考えた。隣で独りで飯を喰ってから、この部屋に来て座る。ヘンテコな絵を眺めていると、一緒にいる時には気がつかなかったアイツのちょっと した仕草が見えてくる。待つわけではない。残すことにした。妻に逃げられてはじめて連 れ添うことが、所有や保護や理解でないと気づいた。いつまでも自分の理解できないモノ をそのまま真っ直ぐにみつめればよかっただけだ。生半可に眺めていたから、アイツはア タシに悩みを打ち明けることができなかったのだと思う。  

 駅前から村沢の眠る部屋に戻って、二人で警察に行き、フィルムを渡すと、犯人はまだ だが被害者の身元が分かったと件の刑事が教えてくれた。白い腕の女性は隣りの県の専門 学校の学生で、被害者の父親は私が殺しますから犯人を絶対捕まえろ。此処に連れて来い と署長室に怒鳴り込んだという。あまりの剣幕だったから、厄介な事になるかもしれない ので発見者の村沢のことは告げずにいた。刑事の話に頻りに頷いて黙り込んだ村沢と別れ てから電車で戻り、そのまま柿の木の家まで歩いていた。  
 ドアをノックすると、あーという返事があり、谷田部が潰れた髪の毛を直しながら顔を 出した。借りていた画集を渡し、コーヒーを奢るからと誘って、駅前の小さな喫茶店に入 った。前日からの事を谷田部に簡単に話し、さっき赤い部屋をみせて貰ってきた。そのま まにしておくって言っていた。と続けてから森田の妻のことを尋ねた。  

 サッちゃんから  
 葉書が届いた  
 いろいろとありがとうございましたってね  
 煙草ある  
 置いてきた  

 欠伸をしながら、ポケットをまさぐる谷田部は、どうでもいいように続けた。  

 モリタには言わないでくれって  
 書いてあってさ  
 多分ヤツの金を少し持って行ったんじゃあないか  
 可哀想だから黙ってることにしたんだ  
 絵をを観ただろう  
 どうだった    

 谷田部は煙草に噎せて軽く咳をして、半分ほど残ったものを指先で潰して消した。  森田の妻の作品は稚拙だが、あれはあれで反復と持続があれば説得力は持つかも知れな いと答えてから、あの部屋に作品を飾り終えて途方に暮れたんだろうな。夢から醒めたよ うな気分だったかもしれない。結婚もそこに含めて麻疹のようなことだと冷めた。そもそ も自宅にギャラリーを作るなんてあなたの発想だろ。プロならまだわかるけど。夫婦の間 に入り込みすぎたんじゃないかと続けると、黙り込んでテーブルの上の煙草に手を伸ばした。  

 自分の作品に共感されたことが  
 はじめてだった  
 而も教えて欲しいなんて煽てられて  
 器量も見極めずに  
 こちらのこれまでの全部を  
 与えようなんて考えた  
 途中から引き返せなくなって狼狽えた  
 午後の仕込みが重怠くなって  
 鉄のカウンターを作りはじめた  
 ちょっと今は忙しいから後にしてくれってわけだ  
 あの赤い壁の部屋が出来上がってからは  
 もう何も教えることは無いって言ったんだよ  そ
 れから暫くは独りで描いていたらしい  
 赤い部屋の壁がもう少しで作品でいっぱいになりますって  
 一度店に来た  
 出来たら観にいくよって言ったんだが  
 居なくなった  
 ほっとしたよ  

 そのことを森田には話してあげたほうがいいとだけ言って、喫茶店を出ていた。こちら は数時間前に現在の無為に対して決断をしたばかりだった。赤い部屋を眺めているうちに 見事に反転してこちらのカラッポの部屋に重なった。逆様に似ていると感じたのはいずれ も森田の妻が佇んだ場所であったからとも言えるが、卓袱台を置いたのも研いたのも自ら の意志であった。こちらの意固地な行為は結局「停止」を温存していたに過ぎない。ふた つの部屋に残った森田の妻の思念が、彼女とこちらの仕草の意味合いを結びつけたような 気がした。根拠を顕すために部屋を極端に構築することと、存在を消滅させる為に部屋を 研くことはいずれも同じような哀しみしか運ばない。村沢のような女ができても、あのカラッポの部屋で再び抱くことは何か惨いと思った。出来ない。数日して、そうしたこちら を察知したように村沢から安藤の事務所に電話があり、何処かへ行きましょうと誘ったのだった。  

 火照ったような身体に浴衣を羽織り、宿の部屋に戻ると、随分と長く入っていたわねと 同じように浴衣を着た村沢が窓際の椅子に座って、ビールを飲んでいた。ずるいなと言って、向かい合って座ると、コップにビールを注いでくれた。何も食べていないねと二人で 同時に声にして静かに笑い合った。窓の外は、雪の積もった白い山肌が迫って、ここは何 処なのと尋ねると、地図を広げるのだった。このあたりには何も無い。旅館も此処だけで、この前の路を進めば、あのブナの原生林の上を通るのよと聞いて少し驚いた。ただし今は 閉鎖されている。路も途中から舗装が途切れ林道のようなものとなるらしい。流石に記者 だけあっていろいろと知っているなと感心すると、独りで勝手に決める旅行が昔から好き で地図やパンフレットを眺めて辿ることは趣味といっていい。今の仕事を選んだのもそう。上司からは睨まれているけど。    
 
 フロントに電話して、食事を早めにしてくれと頼んだ。ちょっと仕事が残っていて。す ぐに終わるわ。ノートパソコンを出してキーボードを村沢が打ち始めたので、そのまま独 りで旅館の外に出て、目的もなく辺りを歩いた。道路には雪が無いけれど、辺りは遠くま で白く陽もすでに隠れ、冷え込んだ青い夕暮れが近付いていた。確かに秘境だった。集落 などどこにも無い。この温泉宿の主人の気持ちで、吹雪の中ただ客を待つ夜が浮かんだ。 部屋に戻る前にもう一度風呂に入った。  

 互いに何も知らないわね  
 あなたが海を覗き込んでいるのを見たとき  
 何か嫌な気がした  
 おかしな言い方だけど  
 生きてる死人を見てた  
 瞳の奥がぽっかりとあの世に繋がっていて  
 とても理解できない貌  
 そしたら頭が海に消えたから  
 死ぬかもしれないと思った  
 車の隣で寝息を立てている時は  
 錯覚だったと思ったけれど  
 何処かわからないところをみつめているあなたを  
 横から眺める度に  
 同じような気持ちが浮かぶ  
 私には恋人がいるの  
 先週の週末は彼と過ごしたわ  
 真面目で明るい人  
 どうしてあなたに惹かれるのかわからない  
 身体も許してしまった  
 こうしてドライブをしても  
 デートをしているって気持ちにならない  
 何処でもいいから  
 抱いて欲しいと思うだけ  
 怒らないでね  
 砂漠とか近くにないのかしら  
 行ったこともない砂漠の砂に  
 両足が膝まで埋まっていて動けない  
 すぐ近くをキャラバンが通るのだけれど  
 気がついてくれない  
 ああ 砂漠だからって思う  
 このまま骨になるんだって   
 でも怖くないの  
 そんな夢を見たわ  
 あなたの部屋で  
 あの初雪の朝  
 あなた 
 きっと  大切な人を失ったんでしょ  

 長いこと連れ添った者同士が全て曝けだすように抱き合ってから部屋の灯りを消すと、 村沢は天井向かって幾筋も垂直に伸びる植物のような言葉を静かに丁寧に潤ませて立ち上 らせた。聞いたことのないような清明な声だった。  
 
 歩む度に過去ばかりが鮮明に甦る。封印して忘却の鍵をした過去は、ただありのままが 美しい。ここ二ヶ月の暮らしでわかったことはそれだけだ。こうした認識に出会いたかっ たんだろうね。封印することをやめるよ。駅前の不動産屋に行って、部屋を出ることを告 げたと続けた。  

 そんな気がしたわ  
 あなたは  
 自分を壊してしまいたいくせに  
 どこか壊れると簡単に修復してしまうのよ  
 写真をみてそう思った  
 ふらっと歩きながら振り向いた時を  
 素直に撮る写真家がいて好きなの  
 彼の作品に似ていたわ  
 誰も居ない 
 何もこれといった被写体がないから  
 目つきだけが作品に残っている  
 でもワタシの好きな写真家の作品は  
 わがままなんだけど  
 やんちゃでもっといろいろなことを許している  
 複雑さや矛盾も豊かな現実として  
 丁寧に受け入れている  
 あなたのは水平と垂直が守られて  
 歪みを棄てたような  
 哀しい消滅の気配が漂っている    
 ワタシを撮ったでしょう  
 あのピントがぼけた写真をみて  
 ワタシを見たな  
 抱かれると思ったわ  
 だから抱かれる前に抱いてやるって   

 大学では何を専攻したのか尋ねると、教育学部と意外な答えが返った。母親に勧められた。でも教育原理や文部省の指導要領などを知って絶望的な気持ちになってバイトに明け 暮れた。教職を諦めて父親はなんて言ったと聞くと、父親はいない。幼いころに亡くなった。  

 なんだかあなたの震えに惹きこまれたのね  
 近頃真剣に孤立する人なんてめずらしいのよ  
 なあーんちゃって      

 これで、最後ということになるわね。もう一度抱いてよと言葉を半分溶かして、首に馴 染みかけたような香りの両腕を回してきた。柔らかい腰を抱き寄せながら、あのブナの森で、こうやって同じように身体を合わせた気がする。と首筋に囁いた。暗闇の皮膚と髪の 間に、白い寄生植物が見えた。

雪の日 1

 結露の凍った窓からは街が消えたようにみえた。
一切が白く変わっていた。初雪にして は多いと雪掻きをする安藤工務店の若い男に、足元を注意されて歩きはじめた。突然の変化に街全体が慌てて、小刻みに震える様子を想像したが、この街の通勤通学の人間の歩みは落ち着いて、乱れることなくむしろ楽しむように踵を滑らせたりしている。だから尚更、 表面を薄く隠されて静まり返った朝の街は、本来の姿を顕わしたような錯覚を生んだ。
 走る車もスピードを抑制し、穏やかにゆっくり走る。規制され、音もなく走る車のスタット レスは、粉塵は生まないが、路を圧縮して氷のように固める。それを溶かす為の薬品で車 が随分傷むのだと、郷里が東北の同僚に北の街の生活を聞いことがある。スパイクをはじ めて履いた時は、鬼に金棒と思っていたとしたら、製品開発も拙いものだなと笑うと、同僚は、否、柔らかいタイヤを基準に考えたアスファルトってヤツが問題だよ。自明なもの となってるのがおかしい。逆様を繰り返した酒の席だった。現在に変わる素材を考えたら 大金持ちだとくだらない会話の中に新しく認識が翻ることが何度もあって、彼と呑む酒は 旨かった。

 界隈の雑音も雪に吸い込まれ、至る所で行われている雪掻きの音が歩道の両脇から重なった。一晩の吐息が窓を凍らせる自らの代謝の旺盛さに舌を巻き、でも流石に暖房は必要だ。簡単なストーブが置かれているような気がした森田商店へと歩いた。

 雪はまだちらついて、空と地との境が白くぼけて判然としない。路傍の塀に積もった雪 を手のひらに乗せると簡単に水に変わるシャーベット状の初雪だったが、目の前に吐き出 される吐息は白い玉となった。幼い頃は雪が積もるとチェーンを履いた車がアスファルト をジャラジャラと削り、根雪となって残された道端の雪はアスファルトの粉末を被って薄 汚く、野良犬もいて、知らずに踏んだ犬の糞を白い地面に擦りつけて歩いた足跡が続いて いた。雪に隠れた犬の糞を避けるように登校し、間違って踏みつけると周りがわっと逃げた。  

 積雪の量も違った。まだ舗装されていない坂道で曲げただけの竹に乗って滑り、白い 田畑にも子供の遊んだスキーの跡が幾筋も残っていた。谷間の山村で年上に乱暴に抱えられ、 鼻水を横に吹き出し坂をソリで滑り落ちたこともある。雪玉を手のひらで固い氷にま るめてぶつけ合う帰り道に、家々の煙突から立ち上る白い煙を眺めて口を開け、降り続け る雪を含んでから、暗くなるまで雪の家をつくっていた。  
 この雪の、空が地面に降りてきたような香りが、歩むごとに幾つかの冬を思い出させた。 

 森田商店の主人も雪掻きをしていた。用件を言うと、店の中にストーブがあるから待っ ていてくださいと、手を休めずに答えた。売り物のことではなかった。
 コンクリートの床には、こんな雪の日も水が撒いてある。以前と同じように窓が開けられ、一日のはじまり の為の換気を兼ねて、清められたように埃もない。雪掻きのシャベルがまとめて入り口の隅に立て掛けられ、棚の商品も所々入れ替えられ冬支度に備えている。ストーブなどあったかしらと探してみたが、棚には無かった。
 取り付けたばかりのような煙突の繋がったス トーブに近寄り手をかざし、冷えた指先を温めて待つことにした。  
 ガラスの敷かれた鉄骨のテーブルには、主人のものとしたら似合うとは思えない赤い毛 糸のマフラーが置かれ、障子は少し開いて、向こうの畳敷きの居間がそこから見え、人の 寄りついた跡の無い炬燵があった。  

 ノブのあるドアが開き、長い息を吐き長靴の雪を床に踏み落として主人が入ってきた。 お待たせしました。降りましたね。と手袋を外してストーブに近より、でもまあ、昼過 ぎには融けますよ。と続けた。石油ストーブでいいですか。それとも電気ストーブ。うち には、電気ストーブは置いていない。あれは向こうの電気屋にある。こちらへどうぞ。返 事も聞かずに居間へ上がった。言われるままに靴を脱ぎ、畳に立つと、更に奥へと歩かされ、 廊下を通って突き当たりの部屋へ連れていかされた。ダンボール箱に仕舞われた幾つ かの石油ストーブが重ねられてあり、どれにしますかと尋ねられた。新製品じゃないんです。 古いのは五、六年前のものもある。そろそろ店に並べようと思っていたら、雪が降った。 迷わずアラジンにした。店に石綿が置かれてあったし、昔から形に馴染んでいる。学生の頃先輩の引っ越しの手伝いで貰ったものと同じかたちだった。
 
 簡単に決めて、店に戻 る際、居間と廊下を隔てて向き合う部屋の少し開いドアから、真っ赤な壁の部屋が見えた。 変でしょう。とアラジンの入った箱を持った主人が肩越しに耳元へ小さく呟いた。指に魘され痕跡を探すデジャ・ビュが起きた。 

 主人は車で運びますと申し出てくれたが、なんとか持って運ぶことのできる重さであったので、丁寧に断り、まだ早い朝の白い路を部屋へとス トーブを担いで歩いた。
 
 石油だったら配達 しますので電話下さいと付け加えられ、ポリタンクも必要だ。もう一度往復することを決めていたが、部屋の入り口に戻ると見知らぬ男が二人立って待っていた。 

 警察手帳を懐から出した一人が、エー出版の村沢かおりさんはご存じですかと唐突に尋 ねた。ブナの原生林で会った女性であるとすぐに理解したが、ハイと答えると、事件があ って彼女も来ているのでちょっと署まで同行して頂きたい。少しお話を聞きたいと言う。 ドラマで観るような老練な控えめにルーキーといった組み合わせでなく、二人ともまだ背 広が身体に馴染んでいない若い刑事で、言葉や態度の節々に腕っ節の弱さを隠すような無 邪気がある。  

 説明は署で聞いてほしいと、まるで内容など聞かされていないような口振りがアルバイ トのように感じる。赤い髪であってもいいような気がした。
 肯いてアラジンを部屋に置き、 何も考えずそのまま彼らの車に乗った。  

 地図を購入した書店から歩ける距離の、本署だろう警察署の刑事課と示された部屋に入ると、職員に混ざって、ブナ原生林で会った女性 をみつけ、頭を下げた。
 隣りに座ると、先日はどうもと小さく挨拶をされたがその声にあの時の明るさはない。彼女自体が事件に巻き込まれているわけではなかった。ジャケットを羽織っただけのパチプロ師のような刑事が、お忙しい所、わざわざ来て頂いて申し訳ありません。ブナ原生林で彼女と会ったことを確認し、当日の行動と目的などを聞いてから 一枚の写真を出した。これは村沢さんが撮影したもので、あなたと会う直前のものだと聞 きました。

 写真には赤いペンで丸く印がされてあり、あの水芭蕉の湿地であることがわか った。丸印をよくみると湿地から突き出た白い枝のようなものがある。人間の腕だとわか った。やはり頭ではなかった。とすれ違った記憶が巡った。  
 続けて見た鑑識が撮影したらしい間近からの数枚の写真には、水に沈んだ身体も克明に 写っていて、死後随分経過しているらしい腐乱があった。  
 あんた見なかったのね。これを。あそこで。と馴れ馴れしい言葉に頷くと、あっそう。 とそれで済んだ。  

 どうやら彼女は、まず真っ先に現場で出会い同行した人間を疑った。自分の撮影した写 真を調べてい?節る際、怖ろしいものをみつけて、その指の開かれたような白い腕と、こちら の素足を重ねたと言う。ハンカチーフは凶行の時の物証だと決めて報告した。
 ビニール袋 に入って写真の横に並べてある。その写真をワタシが撮影していたら、同じことを考えた でしょう。そう言うと、違いますって早く聞きたかった。と女は緊張をやや解したように ようやくこちらを向いた。  

 検屍報告によると、我々の訪れた日よりも数日前に息を引き取っており、運ばれ放置さ れたと警察はみている。調べればこちらにも、勿論彼女にも関係が無いことは明白だった が、発見した者が、怯えて全てを疑うのも無理はない。被害者はまだ若い二十そこそこの 女性だという。首に絞められたらしい跡があり、外傷は他になかった。結局、指紋なども 採取された。こちらには動機はないし、白い腕の身元はまだわからない。行方不明者のリ ストを片っ端から当たっているという。レンタカーは既に調べられていた。林の入り口で 出会った背広とヒールの二人連れのことを話して、三十分ほどで取り調べから解放された が、こちらのカメラのフィルムがみたいので、後日持って来ていただきたいと注文を受け、 村沢と一緒に放免された。

 そういことは部屋の入り口で言ってほしい。あの二人ではそう いったことは気がつかない。お送りしますといわれたが、女に合図を送られて断り、二人で近くの喫茶店に入った。  

 疑いました  

 住所なんて教えたかしらと尋ねると、警察が バーベキューの家族を捜して聞き出したんじゃない。家族は犯人と食事をしたと思ってい る。違うって電話をしなくちゃと笑った。 あなたも怖かっただろうね。村沢はかなりねと拗ねるように口を尖らせた。あの時の事を あれこれ話ながら、いつの間にか村沢の探偵のような眼差しを懐かしいような心地で眺めていた。  

 明日にでもフィルムを警察に持ってくるというと、その前に、そちらの写真に何か映っ ているかもしれない。あなたはカメラを構えなかったような気がするけど、わからないわ。 見てみたい。そう言うので、何度かはクシャミのようにシャッターを無意識に押していた かと朧気な記憶を辿った。彼女の車で部屋に戻り、ブナ原生林の時のフィルムを探すこと にした。仕事はいいのかと尋ねると、これでも記者よ。デスクに犯人らしき人物と一緒と メールしておいたから。と平気な顔をしてハンドルを握った。

 部屋への階段を昇り始めた 時、一体どうしました。刑事が来たでしょう。下から跡取りに声をかけられた。簡単に説明すると、よかったアンタが何か怖ろしいことやったと思っ ていた。と臆面もない感想を投げられた。

 村沢は、一度は皆さん疑うみたいね。と笑った。 石油の無いことに気づき、跡取りに頼むと、任せろと、探偵の同僚になったような弾んだ 声で、階段を駆け下りた。アラジンを箱から出して、跡取りが持ってきた灯油をストーブ に注ぐまで、村沢は卓袱台に正座をしてこちらの仕草をみていた。

 何もないんですね  
 ずっとここでお暮らしなんですか
 
 ライターで火を点けると、村沢は小さく尋ねた。越 してきて一ヶ月くらいかな。ストーブを今朝買ったところです。と答え、押入からフィルム の入った箱を出し卓袱台に置いた。 幾つかは現像とプリントをカメラ屋に出してあったが、ブナ原生林の時は、一眼レフにポ ジフィルムを入れたと覚えていた。スリーブ状のポジフィルムを幾つか探すと、バーベキ ューを?節食べる人間や料理が映ったものをみつけた。まだマウントしていない。プロジェク ターで眺めていなかった。村沢はみせてとそのフィルムを光に翳した。 

 ああ 美味しそう  
 ワタシも残ればよかった  
 これはワタシね
 
 ルーペありますか 

 プロジェクターはあるけれど  夜じゃないと
 何枚か林が映っているわ

 と囁くように呟いて、こちらにフィルムを渡した。振り返った村沢のバストアップの前の三カットのひとつが、件の湿地だった。腕は見あたらない。 シャッターを押した記憶が全くないと首を傾げると、ワタシが映っているのをプリントして下さらない。首を回して女の顔を見ると、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳が、すぐ傍にあった。この瞳見覚えがある。  

 警察から返してもらったらあなたのをプリントするよと、 真っ直ぐに伸びた女の瞳に返 事を返した。  
 この辺りを歩いて写真を撮っているのね。お仕事なの。箱に入っている他のフィルムや コンタクトプリントを取り出しながら、こちらの日々の記録を眺めはじめた。何でも答え てやろうと決め、例の地図を広げた。  

 湯が湧かせないんだ。コーヒーでも買ってくる。地図を眺めたまま肯く女の背をみてか ら、外に出た。雪はとうに止んで、昼近い時間となり、森田商店の主人が言った通り、路 上の雪の大方は消えている。ストーブがあるじゃないか。コインランドリーの横の自動販 売機で気がついたが、女が帰ってからにしようと決めた。  
 部屋に戻ると、村沢は窓際に立ってマウントしたフィルムを左手に重ね、右手で静かに 覗き込んでいた。今日からストーブがあるから、湯が沸かせる。後で薬缶を買ってこよう と思っている。  
 すらすらと決心を告白するみたいな言葉が、気怠い反復感を伴って口から零れた。缶コ ーヒーを卓袱台に置き、どうぞと言うと、ありがとうございます。と窓から卓袱台へと戻 って膝を崩して座った。甘い化粧の匂いの奥で女の髪が弱く香った。
   
 この汚れはあなたが歩いた跡ね  
 電話も無いのね  
 冷蔵庫も無い  
 テレビも無い  
 コンロも無い  
 カーテンも無い 

 弱く茶化すように呟いてコーヒーを飲む女を、じっとみつめていた。 やがてなんとなく壁に残っていた指の跡の話をはじめていた。あそこなの。と指差す女は、 聞き終えてから、フーンと鼻で答え卓袱台に頬杖をした。指の主がワタシだったらどうす る。何をしていたって尋ねるのかしら。とぼんやり囁いた。眠気が降りてくる。窓の結露 は融けて、幾筋も真っ直ぐに垂れていた。焼鳥屋の作品みたいだと思った。  
 理由なんてどうでもいいかもしれないなと答えて、このまま女の横で眠りたいと思った。

 ごちそうさま 明日 警察に何時にいきますか?  
 そうだ 連絡ください 
 
 携帯の番号を書いた手帳を破って卓袱台に置き、村沢は立ち上 がった。なにか夢だったような気がするわ。と買い物にでも出かけるような気楽さのある声を残してドアを締めて出て行った。  

 昼飯を喰う気持ちが萎えたまま、再び森田商店まで歩いた。すっかり青空が広がり、屋 根に少し残るものを除いて、雪は全て消えている。女が帰ってから、妙に気怠い眠気が降 りて、そのまま布団も敷かず眠ってしまった。ストーブで床も暖かかった。工務店に顔を 出し、灯油の礼を言うと、事件のあれこれをまた尋ねられたが、今日の夕刊にでも載るか も知れないとだけ言って逃げた。  
 障子の閉まった店で、薬缶と灯油のポリタンクを買い、ポリタンクは石油を入れて運ん で頂きたいとこちらの部屋の住所を言って頼むと、配達は夕方になりますがよろしいです か。と主人は一瞬躊躇してから答えた。薬缶をぶら下げて歩きながら、森田商店の主人は、 赤い部屋のことを気にしているのかな。と呑気に考えた。

 陽も短くなり、朝からいろいろとあって、探索の時間はない。夕方森田が灯油を運んで 来る前に、早々と済まそうと銭湯の暖簾を割った。大抵蕎麦屋での夕食の前に済ましてい たが、午後四時の開業と同時に服を脱ぐのははじめてだった。湯に浸かる人影は疎らで、 湯船には夕方の西日が少し残っていた。日の出の湯というこの銭湯は、火の車と最初は思 ったが、固定の客は必ずいるようで、高齢者も多い土地柄もあり、勿論自宅には風呂があ るけれども、こちらのほうが気が楽だと、息子夫婦を愚痴る、わざわざ足を運ぶ人間で、 採算はとれているらしい。終始憮然と番台でテレビを見ている女将は、焼鳥屋は嫌ってい るが、湯船から脱衣場の散らかりを一人でこまめに動いて片付けている様子が度々眺めら れ、大して広くない湯もタイルも清潔に研かれ、客を待つ支度がいつもきちんと済み、脱 衣籠の幾つかは丁寧に修理されていた。旦那と交替でクリーニングの店と番台をやり繰り している。愛想のよくない性格は、むしろこういった仕事に適切であると思われた。

  頭から湯をかけ熱い湯に沈むと、湯煙の中に覚えのある顔があった。早いな仕事は仕舞ったか。としゃがれた声は、焼鳥屋で腕の傷をみせた老人のものだった。初雪はこうも早く消えますか。と返すと、今年は遅かったから多かった。と顔を両腕で拭った。すぐまた降るよ。湯から出た老人の背には黒々とした牡丹の刺青があった。藍色が熱で赤く火照る とああいう色になるのかもしれない。両肩から尻までとは見事だ、あの時は気がつかなっ たなと、鉄のカウンターを思い出した。他に客がいなかったこともあり、なんとなく老人 の横に座り、洗いましょうと背中に回って、タオルで刺青の形に添うように石鹸を擦り込 んだ。老人は、ほら、と今度はこちらの背に回り、結構強くタオルを上下して、ペンと肩 を叩いた。軽い我慢比べのように湯に浸かってから、互いに笑みを零した。  

 老人は素っ裸で湯上がりの脱衣場で腰に手をあて牛乳を飲み干し、身体に馴染んだ厚手 の大島を臍の下で帯をしめて形を整え半纏を羽織ってから、季節と無縁な雪駄を素足にひ っかけ、片手を挙げて、お先にと暖簾をくぐっていった。膝の膨らんだスエットにダウン のこちらを、脱衣場の大きな鏡で眺めると無性に恥ずかしかった。  
 乾いた喉をビールで潤そうと、焼鳥屋へ風呂桶を持ったまま歩くと、先程の老人が、向 かい側の別の店の前で手招きしている。焼鳥屋がこっちをみて、あっちへ行けと手で払っ た。老人に用事あるかい。と声をかけられて、誘われるまま小春という小料理の店の暖簾 をわけた。

 入り口にはふたつ大きく塩が盛られ、床は玉砂利が敷かれた、これまたカウン ターしかない店だったが、隅に置かれた菊が出所のよさそうな器に丁寧にに飾られてあった。奥には禿げ上がった板前が俯いたまま手先を動かしていた。  

 お久しぶり  
 めずらしいわね  
 お連れがいるなんて      

 五十そこそこだろうか丸顔の、渋い枯葉色の中シクラメンが鮮やかな和服の女が、柔ら かく椅子へと二人を促した。老人は熱燗を頼み、こちらをみるのでビールを注文した。今 日は美味しい鮟肝があるの。表面に霜の降りた指が張り付く冷えたグラスで撓んだ喉に冷 たい金属を流す感覚でビールを飲み干した。二杯目を自分で注ぎ再び一気にグラスを空け ると、お風呂上がりは格別よね。と今度はママが酌をしてくれた。   

 人に背中を洗って貰うなんて  
 随分と久しぶりで 
 誘っちまった  
 モンモンも今じゃ珍しくないか  
 近くかい

 部屋のある建物を言うと、ああタカシんとこか。東京から来たのか。袖を押さえ熱燗を老人の前に差し出したママに向かって、老人は呟くような声を転がし、最初はママからの酌を受け、杯を空けてから手酌でゆっくり酒を注いだ。お通しの塩辛には手をつけず、鮟 肝を紅葉おろしで口にして、静かに一合徳利を空け、湯上がりと違った赤味を首筋に顕わ した。  
 ビールの中瓶を空けて、ママに泡盛を頼むと、古酒よと冷やしたものを別のグラスに入 れてくれた。時間が早いので、まだ仕込みを終えていないのだろう板前は、額に汗をほん のり浮かばせていた。老人が無理矢理店を開けさせたかもしれなかった。老人を十分に承 知して余計を挟まぬように、ママは時々酌をして、旦那とは思えない禿げてはいるがまだ 若い板前に二言ほど小さく添えて狭いカウンターを流れるように動いた。こちらは、骨ま で染みるとこぼしたかもしれない。  
 
 泡盛の古酒は濃厚で、気がつけば枝豆と塩辛と鮟肝の皿には何も残っていない。古酒を 煽る度に空腹感がつのった。そういえば朝から何も口にしていない。お茶漬け貰おうかな と、腹を空かした青年のような乱れに老人は黙って自身の皿をこちらへ押し寄せた。独り 者か。嫁さんが待ってる喰い方じゃねえな。こちらになど一切関心が無さそうな寡黙な晩 酌の隣はひどく心地よかった。帰省の度に父親と酌み交わした懐かしいような甘えが膨れ るのだった。ヤクザなんですか。焼鳥屋ではわからなかった。
 迂闊な言葉がぼろっと零れた。 このおじいちゃん石屋さんよ。 堅気の人なのよ。   もしかしたら、有坂石材店。ともう古くなったような記憶を探って言葉を当て嵌める と、失礼なヤロウだな。そうだ。なんで知っている。と即座に返すので、この街に来た際に、 そこの若者とぶつかって、鼻血を垂らしたことを話した。ああゲンタだ。女みたいなやつ だったろう。いいえ、髪の毛は赤かったが即座に頭を下げられて痛みは引きましたと言う と、そうかいと目尻に皺を寄せ微笑んだ。  
 
 あいつは、見かけは今時の格好してるが、真面目でな。まだ十九だ。十六の時、働かせ てくれって独りで店に来た。安いぞっていったら構いません、住み込みでもいいでしょう かと言うんで、家は何処だって聞くと答えない。親に黙って高校を中退して電車に乗った そうだ。実家は南の方でな。よく働く。去年足の上に墓石落として指を潰したんだが、夕 方まで大丈夫ですって我慢してた。馬鹿たれだよ。骨が折れてた。風呂には一緒に入らな いが、黙ってよく動くやつだ。  
 孫ほどの人間に自分のこれまでの技術を渡そうというわけですね。と言葉を挟むと、に やっと笑って、オレも若い頃無茶やってな。親方に拾われた。その恩返しだ。この人には もっとやってもらってな。と老人はママに言ってこつんと杯をカウンターに置き、こちら の顔も見ずに、肩をまたポンと叩いて、ふらりと店を出ていった。ママはお気をつけて、 と入り口まで見送ってから振り返り、このあたりじゃあああいう人あんまりいないわよね。 と同意を求めるような笑みをこちらへ寄越した。  

 泡盛を続けて頼み、上品に盛られた梅干しと鮭におろし山葵が乗った茶漬けを一気に腹 におさめると、暖簾が割れて、森田商店の主人が、居た居た居ましたと入ってきた。主人 の後ろには村沢の顔があった。箸をおろした。

 来ちゃった    
 
 灯油を運んで部屋の前にいくと、彼女が立っている。聞くとあなたを待っているという。 そのうち戻るでしょうと言ったが寒いから、銭湯に行って聞いたらちょっと前に来て、ア リサカの親父と一緒に出たと聞いた。谷田部のとこかなと思って、焼鳥屋に行ってわかっ た。女を待たせちゃいけないなあ。そこまで一気に森田商店の主人は説明して、村沢を隣 の椅子へと座らせた。 

 谷田部っていうのか  

 まず焼鳥屋の名前に関心していた。森田に頭を下げて、どうぞと別の椅子をすすめた。 ママは、カズちゃんの友達なのとこちらを向いた。さっきまでアリサカのおじいちゃんと 一緒だったのよ。ママは森田に親しそうに話しかけた。そこで会ったよ。この人は店のお 客さんだ。ビール頂戴。駄目よ。車置いてらっしゃい。配達の途中でしょ。わかったわか った。森田は、戻って来ていいかなとこちらを向くので、勿論と答えてから見送った。そ して村沢の顔を見た。  

 ワタシにもビール下さい。とママに注文してから、もう一度、来ちゃったと呟いた。卓 上コンロを持ってきたのだという。お料理くらいワタシが作ってあげようと、卓袱台で決 めていた。あの部屋は何も無いから。思わずこちらも、あなたの横で眠りたくなって、あ の後本当に眠ってしまったと、呟き返していた。  

 聞こえない振りをしているようなママに、今日のあれこれを話してみたくなったが、森 田が来るまで我慢しようと思った。  

 ああ、美味しいと見覚えのある白い喉を伸ばして、ビールを飲む村沢の唇に泡が残った。 左手の中指で唇の泡を拭いとり、その指をまた舐めて、あなたの話してくれた指のこと車の中で考えていた。とグラスをみつめたまま話した。多分しるしだわ。忘れないっていう。 あなたは、全部受けとめちゃった。そうしてワタシにもあの指娘が少し宿ったみたい。  

 刺身の盛り合わせを頼み、ヒラメを箸で口に運んだ。なぜか妻の料理を思い起こしてい た。お総菜など買わず、必ず料理をする女だった。皮膚炎で丁度今頃の季節指先が裂ける ので、洗い物を気がつけばこちらが預かって行っていた。ベランダのプランターには様々 な花があり、水をあげて育てていた。だがこちらは隠れて時々インスタントのラーメ ンや、レトルトのものを温めて腹に入れることがあって、育ちが悪いのだからと悪ぶった こともある。季節の魚を買ってきて三枚におろし、刺身で二日に分けて喰った。焼いた魚 も二人で丁寧に食べた。本当に自分の記憶なんだろうかと悩ましい心地に傾いた時、ワタ シも此頂戴。という村沢のはっきりとした声が届いた。  

 古酒をグラスに注ぐママが、カズちゃんはねえ、アタシの同級生でね。と、こちらの寡 黙を察知して話し始めた。小学校、中学校と同じクラスだったのよ。アタシは若い時分は 東京で過ごしたんだけど、あの人はずっとこっちでね。真面目なのよう。不意に堰を切っ たように饒舌になったママは板前に、シッタカ出して頂戴。と言って、おごるわと加えた。  
 頬を少し赤くした村沢は、この古酒っていうのはじめて呑んだわ。とママにお代わりを 頼んだ。ママは東京にいた若い頃を話すと、村沢は頻りに肯いて相槌をうって話を急かし た。しばらくは女たちの会話を肴に酒がすすんだ。  

 おまちどうさまと森田が現れた。最初に会った時と、印象が随分変わった。酔いも手伝ってあの赤い部屋は、一体何なのとこ ちらから親しげに話しかけ、左隣の椅子をすすめた。  
 もうアタシたちの関係話しちゃったわよ。ママの明るい声に森田は戯けて、まいったな あ、人には言うなって約束したじゃないか。村沢もこちらも泡盛が回って、けらけら笑っ た。森田がビールで身体を緩めるまで待とうかと、今日 の顛末を話した。途中から村沢が話を引き受けて、こちらの部屋の指のことまで及んだ。 ママが、カズちゃんの奥さんの部屋じゃない。と挟んだ。灯油を運ぶ住所を聞いた時、 気がつきました。森田はグラスにビールを注ぎながら話しはじめた。 

 妻とは母親の葬式 で知り合いました  
 親戚が彼女に用事を言いつけたのが切っ掛けで  
 家にふたりだけになった    
 歳が離れてましてね  
 わたしは家業を引き受けて何年にもなる  
 これからどこか別の土地で暮らすなんてできない  
 店はあそこでいいから  
 住む場所はマンションか何かにしようって無理を言う  
 店はあなたの会社だから毎朝通えばいい  
 最初は可愛いことを言うと思いました    
 仏壇が嫌なのかと聞いたがそんなことじゃないと言う  
 わたしも逃げられたくなかった  
 二十近く違うとね 溺れるふうだった  
 あの部屋を借りてね  
 独りで住まわした  
 ママゴトみたいで楽しかった  
 けれど店には足を入れようとしない    
 多分指の跡というのは  
 絵の具じゃないかな  
 暫く谷田部に絵を習っていたから  
 赤い部屋は  妻のギャラリーなんです  
 
 でも結局逃げられたのよね。とママが、何かをさえぎるように横槍を入れて、森田は黙 り込んだ。アタシにも頂戴。とママはビールの栓を抜いた。ママはその結婚に反対したん じゃない。と村沢が唐突に言うと、そうなの、結婚式も披露宴もしないで籍だけ入れたっ て言うから、じゃあパーティーでもしましょうよってアタシが同級生とかを呼んだの。そ したらあの娘来なかったのよ。
 人見知りが激しいんだ。森田は言い訳をママに続けると、 ママは違うわ。と区切った。もういいじゃないか。居ないのだからと森田は酒の燗を言いつけて、皿に箸をのばした。  

 卓袱台はあなたが作ったものではないのかと尋ねると、違う刑務所の服役者です。と答 えた。椅子もスタンドもガスコンロも棄てたよと言うと、森田は肯いて、指の跡には気が 付かなかった。谷田部は妻に余計な事を教えたんだ。と深い溜息をついた。
  
 赤いギャラ リーに伺ってもいいかな   

 構わないと森田は肯いた。村沢はすでに酔いが回っているようだった。我々はこれで帰 ります。またお店のほうに行きます。と森田に伝え、女の腰を支えて立ち上がり、オアイ ソと言うと、ママはアリサカのおじいちゃんからいわれているからいいわよと言ったが、 そういうことではないと支払って、森田に色々とありがとうと頭をさげ、店をでた。出会 ったばかりのふたりは酔っぱらってふらりふらりと歩いた。村沢は、何度も大丈夫。ダイ ジョウブ。と呟いている。脇を抱えた腕に女の柔らかい重みのほとんどが乗り、だが、そ れが何故か心地よかった。このままずっと歩いてもいいと思った。焼鳥屋にはまだ客もい て、谷田部の動き回る姿が路を挟んでみえた。女がいなければ森田の妻のことを尋ねたい 気もした。  

 部屋へ昇る階段をひとつひとつ女の身体を持ち上げるように踏んばってあがるとドアの ノブにビニール袋がぶら下げてある。部屋のストーブを点けると、後ろに村沢がコテンと 横になって寝息を立てた。 
 村沢を布団に寝かせて、こちらもストーブを抱えるように身を曲げて眠ってしまっていた。窓の外が白く明らんで来る頃目が覚め、壁に寄りかかった まま村沢の顔を眺めた。酔いは引いて、湯気を出して沸騰していた薬缶に水を注ぎ、その まま銜えて喉に流した。  

 まだ酒の残る頭が現在を把握しようと鈍く動いた。散漫に放られた断片が符合し関係し た結果のまた新たに膨れた断片が、何処かに符号を求めるのは道理でもある。だが自分は、 そういう関係の外にいて単なる傍観者にすぎない。而もこの断片の欲望は、隠された構造がいずれ明らかになるパズルを解くような明晰な認識の広がりに肯きたいという種類では 無く、出来事に絡む人間たちの存在の網でできている。「一体誰の為の赤いギャラリーだったのか」という問いを、禅問答のように立てて、人としての倫理を考えよとこの街から 促されるのはなぜか。  
 間近で女が布団で寝息を立てていること自体、いずれ符合する関係の総体に辿り着くた めの不可欠な断片に思えてくる。村沢の緩く上下する膨れた胸と、薄く開かれ呼吸が漏れ る唇をみつめたまま時間は過ぎた。ドアの脇には、卓上コンロと、可愛いような食材の入 ったビニール袋が置かれてある。紫陽花の模様の布団に眠る女を眺めることが、自身の目 的だったような錯覚も膨れた。列車を降りた時から、ひとつの導きに招かれているのでは ないのか。空虚に白く霞んだようにこの街に住むのではなかったか。身体を微かに動かす 度に、世界が大きく揺れてしまう。顎に伸びた髭を指で触れながら、物音のしない朝早く、 思念ばかり太く邪に覚醒していく。さすがに透明人間のように振る舞うつもりはなかった が、誰もこちらの詮索をしない。頑なな拒絶が相として貌に刻まれているのかもしれない。 否逆に、全てがあからさまに耳元や肩などに顕れているのだろうか。与えられた白い紙に 並んだ問題を解く為の、公式もメソッドも喪失して、途方に暮れた十代の頃の試験の感覚 に似ている。身動きができない。 ふいに村沢の瞳が開かれた。   

 起きていたの  
 酔ってしまったわ  
 でも美味しかった  
 古酒  
 もう朝なの  
 警察にいかなくちゃあね  
 ごめんなさい  
 
 すっかり眠ってしまったわゆっくりと物憂げに女は呟きを洩らした。黙って肯くと、女 は、寒いでしょと布団を腕で持ち上げた。上下のスウェットと下着を脱いで隣りに横にな り、女の服を脱がした。  
 部屋に白い朝が忍んでストーブの火の灯りもそれに溶けはじめた。素肌を重ね静かに抱 きしめると、身体が冷たいわと首に腕を回してこちらを強く抱き寄せ、柔らかい熱を帯び た太股を股に差し込んだ。  
 互いの唇を吸い、濡れて膨れた性器を互いに確かめて深く交わった。女の唇から酒と情 欲の香りが溢れていた。君はチフミではないなと囁くと、女は喘ぎながら焦点の乱れた瞳 をどこか遠くへ放るように違うわと耳を噛んだ。腕や胸、腹から腿に走る青い血管が時折、 桜のように赤らんだ皮膚の中、深いコバルトに染まった。二人とも動物のように呻き、求 めると身体は応じ、白く仰け反った美しい喉を曝して、果てる度に関節を失っていくよう な形で、絡み合って悶え続けた。  
 やがて沈み込んでから、身体を弱く痙攣させる弛緩に任せた。
 
 今一体何時なのかしら   
 今日も大雪みたい

 女は窓際に裸で立ち、曇った窓ガラスを右手で拭った。白い尻に誘わ れて立ち上がり後ろから腰を抱き、首筋を噛み柔らかく尖った胸を揉んだ。

 北上する河川に西から注ぎ込む水量の豊かな渓流添いを車で一時間ほど辿り、鬼女の伝 えが残る村の管理する有料の路を源流へと更に進んだ。鎌倉の頃から男たちが修験の場に 選び、おそらくそれ以前にあった山岳信仰と渾然となって、脱サラしたような山伏たちが 霊験を求め、女人禁制を布いて時には荒々しい男色に染まった憶測を容易に抱かせる、特 異な形態に隆起変成した連山の裏側の深い渓谷で、複雑に織り込まれた地形に阻まれ、人 間の居住には厳しく、北の尚深い山谷が、それ以上の移動を許さなかったのだろう行き止 まりに、この国では数少ないブナの原生林が残された。そこ迄の路は途中のダム建設の為 に開発された筈のもので、ダム開発に伴った緩和策だろうかわからないが、それでも上流 の保護された公園まで舗装が延長され、人気のある名所として管理する村では、その収入 に大いに頼っているという。
 信仰の連山の東側の、今では陽射しや人の足が気楽に届くペンションなどの建つ、明るい、地方都市が広がる盆地まで麓が大らかに伸びる空間と違っ て、西側はV字に陰が差し、切立つ岩山の真下には源流が堅い岩盤を砥めて孤立していた。 西から滑り落ちる斜面に背丈の高い群生林が、谷に吸い込まれる風の形に姿を習い、放置 されるように渦巻く大気を従えて凛然と在った。
 数か月前までは、大雨の濁流に路を破壊 され、復旧に二年はかかった。その前にも同じようなことが何度かあった。と聞いたのは、 新しいカメラを売り込む主人に辟易し、壁にあった雪景色を尋ねた時だった。シーズンに は大勢の人間がおしかける。五月の休みには残雪の中、芽吹きと水芭蕉を楽しめる。夏にはキャンプをする客で賑わう、どこにでもある行楽地だが、いざ時期を外すと人気の途絶えた、原生の森が圧倒的だと大袈裟に説明されて、レンタカーを借りるまでココロが動い た。

 山を行くことにそれほど時間を割いた記憶はないが、振り返れば足を運んだ場所が延 々と数えられた。そもそも親の都合で、山村で幼少を過ごし、土を掘り、練って遊んだ記 憶も小さいが鮮明にあり、然し、暮らし自体が間借りの、土着とは裏腹のことであったか ら、そういった環境への執着は薄い。宿場の構造を観察する日々に熟れて、他を望んでいた。

 閉鎖される雪深い冬期に数週間を残すばかりとなった晩秋であったが、足元に踏みしめ られた照葉落葉は湿り気を帯び、陽射しには温かみがあった。谷をけずるように吹き抜け る風と足元を流れる渓流の音が交ざりあって、腹を撫でるような静かだが重い音響が辺り に弱く渡り、間合いを測るように鳥獣が叫びを挟んでいた。渓流を独行する釣人と営林か 土木関係の人間のものと思われる車が数台あるだけで、夏にはキャンプ場として混雑する らしい駐車場には、人影が見当らなかった。車の進入を規制するゲートが踏み切りの遮断 機に似た作りで路を遮り、遠くにこんもりと見えるブナの原生林までは車を置いて数キロの上りを歩かねばならなかった。原生というのだからと欝蒼とした暗い森を考えて、青い 鳥でも見るかもしれないと大袈裟に構えることを遊んで、建設会社の跡取りから防水の長 靴を借り、望遠レンズまで携えたのだったが、二キロほど歩いて舗装が途切れたあたりで、 ワンピースにヒールをひっかけた女性を連れた中年の背広姿に出会い、すれ違いざま頭を下げられて、その時は、気楽な場所なのだと落胆しながら、こちらも挨拶を返していた。 脇にちょろちょろと染み出た水で喉を潤してから、振り返ることもなく、湾曲する片側が 崖となった轍の凹みが水溜まりをつくる路を歩き続け、ようやく見上げるような林の入り 口に立った。

 原生林は全体のボリュームはあるのだが、葉の抜けた枝のせいで明るい。原 生の林を迷走する散策路が記された地図をみつけ、大雑把に頭へ入れた。確かに植林され た針葉樹とは違って、葉を大方落として尚数十メートル上空に枝を広げ る様は、非日常の空間と怖気づくには充分な偉容を誇った。季節柄、鳥獣たちの貴重な蛋 白源となるブナの実を啄ばむ、活性のいい叫びや、羽音、中には正体のよくわからない雄 叫びも遠く聞こえて、枝がその虚空で切る風と、下方から立ち上る渓流の渦の振動が足元 で交響し、枝を踏む足音も木霊するように思い切り響いた。原生とはつまり放置であって、 人の介在した散策路はあるけれど、暴風雨か落雷で樹木が倒れ、絡み合ってこちらと全く 無関係な空間を形成している。顎を上げ口を開けたまま痺れたような心地のまま歩んだ。  
 
 湿地に光が落ち、視界が広がるおそらく水芭蕉の群生地だろう広がりにでると、不意に 先程のふたりの歩行の残像が湿地の向こう岸に浮かんだ。丸めた背が繰り返されて、そこ に男の思い詰めたかたちを与えていた。背広とヒールで簡単に立ち寄ることは確かにでき る。だが、ロマンチックな空間とは思えない。迷妄とした樹海じゃないか。ちょっと死の うかと誘って、ドライブの折りの悪戯な揺れに酔うように行き止まりまで来てしまった。 歩くうちに髪がこわばり、女の肌も白く透き通って、こんな季節は花もない。誰もいやし ない。女の脹ら脛が落葉とのバルールで男の瞳に発光し、それに迷わず誘われた殺気だっ たような欲情が膨れ、暗がりの幹に押し倒して、これが最後だという幻惑に包まれ強く抱 きあった。鳥獣と変わらぬような果てる叫びを、振り絞るようにあげ、見上げると枝で引 き裂かれた青い空に落ちていくようだった。女はそんなことを囁きながらひとりでワンピ ースを直し、髪に絡んだ葉を指でとり、何かを待ったけれど、男は帰ろうと促して、精の 抜けた、辺りに溶けてしまったような袋のような抜け殻を引きずって歩くと、次第に互い に憑物が落ちて軽やかになった。何か旨いものでも喰おうかメニューをあれこれ尻取りで 転がす会話の途中で会ったのかもしれない。とそこまで何の疑いも挟まずにこちら勝手の 妄想を流した。女はハンドバックを機嫌よく撮り回すようにしていた。戯れにしては、色 気の濃い羨ましい話だ。一端放るように、光合成をしない真っ白な寄生植物をみつけて座 り込み、近寄ってみつめると、肉体の弱く火照る疼きが退き、尖った観念がほぐれ、白い 懸命さの中へ誘われた。「アシュラ」と唇から言葉が勝手に迷い出た。  

 立ち上がって湿地の縁をゆっくり歩み、倒れた潅木に腰をかけると、足元の褐色の落葉 にぽつんと白いハンカチーフが折りたたんだまま落ちてあった。死のうとしたか。と声に 出すとハンカチーフが匂い立つ気がした。  

 燈草を取出し、根元まで深く吸って唇を舐め、湿地のどこかに水芭蕉の白い花を探すよ うな無理をした。春の芽吹きの子供の頭位の蕾が密集する、壮絶な光景を勝手に当て擦って、 否、頭じゃなくてせいぜい手首だろう。考えた後で背に小さな怯えがすっと触れた。 瞼を瞑り、谷から吹きあがる冷気に身体をどうぞと差し出すようにすると、投げ遣りな気 持ちに柔らかく包まれた。ハンカチーフを潅木の上に置き、湿地から更に奥へ歩みはじめた。  

 それなりに登り下りある、時には泥に埋まる足元の不確かな散策路であったので、息も あがり汗を垂らしたが、やがて現代劇の舞台のように静謐に用意された、スポットライト に似た光の束が落ちる柔らかい地面を歩く自らの身体の呼吸と足音が、原生の大気や樹木、 微生物らに引き受けられている安心が広がり、現在を上空から幻視して、世界に一人だけ となったヒトの海月のように柔らかくて弱々しい塊に、人間的な存在の儚さを愛おしく与 えるつもりも生まれた。  
 見上げると、厳しい季節に備えるような威勢で枝が空を抉るように切っている。数ヶ月 の吹雪や積雪で骨まで曲がる樹木の、服を脱ぎ捨てたような身の投げ出しと見て、年期が 違うな。こちらなど貧弱な都合で生きていると考えたりした。  

 一時間は歩いた。崖に迫り出した見晴らしのよい岩をみつけて腰掛け、それなりに泥で 汚れた長靴から両足を抜いて、靴下と、上着を脱ぎ、一度もファインダーを覗いていない 重い望遠レンズで真下に向いたカメラを肩から下ろした。数十キロの範囲にボツンとひと つ在る眼差しは、重なった残り葉にこぼれる光と影に、飽きることなく人型を探す風だっ たが、リュックからサンドイッチと缶コーヒーを取り出し腹に入れ、横になると、獰猛な 印象の原生林をブラウン管から眺めている現実感の喪失した呑気さに全身が撓んで、ウト ウトと身体が痺れた。久しぶりに心地よく疲労した。ようやく帰ってこれたのだからこの まま眠ってしまおう。と部屋の床に身を投げる。同じことを幾度か繰り返す浅い夢をみた ようだった。    
 白紙に鉛筆で線を引くようなイメージを夢の終わりに加える短い叫び声が聞こえた。夢 と記憶が交錯し妻が台所で火傷をしたと思った。振り返った妻が紙を破いただけよ。瞼の 裏に返事を受けながら半身を起こすと、目の前に、原生の林を背にして一人の女性が、口 に手をあて眉を曲げ見開いたような瞳で立ち尽くしていた。上手く動かない口元で吃るよ うに、どうしましたとこちらから尋ねた。  
 
 素足だから    

 女は擦れたような小さな声で答えた。  

 驚かせてしまった。と口元に残る誕を拭うと、女は帽子をとり、髪をかきわけて強ばっ たようだった頬を解くように少し微笑んだように見えた。  

 あなたも撮影ですか  
 私は取材なんです  
 此処の記事と写真が必要で  
 一枚も撮影していないのです

 と答えにならない言葉を返しながら、女の声を、馳分久 しぶりに耳にした人間の艶かしい悶えのように受けとめて、上着を羽織り、靴下を履き、 長靴に足を差し込んだ。どなたにも逢いませんでしたか。と瞳をのぞくと、この森では一 人にも。私独りとばかり思ってたから。駐車場では、家族が、バーベキューの準備をして いました。と徐々に赤みを表情に取り戻して、照れたように下を向いた。どうぞと、隣へ 座るよう脇へずれると、女は戸惑いなくすっと腰をおろした。煙草に火をつけリュックに 残っていた缶ジュースを冷えていませんがとすすめると、素直な喜びを零して、喉元を白 く伸ばして心地よい音で流し込んだ。缶を持つ女の右手首にあった腕時計をみると、二時 間以上は眠っていた。それ以上会話が弾むということもなく、だがさてと顔を見合わせて、 互いに自然と連れ立って歩き始めた。樹木や鳥の種類、枝振りなどの様子を、たあいなく 話したかもしれない。女は時々立ち止まってシャッターを押し、いつのまにかそれを待つ ようなこちらに走り寄り、再び歩みを重ねた。こういう林では、離れていても女の呼吸が 手元に感じられる。然し独りでこんな乱暴な所へよく来れるものだと片膝でカメラを構え る背中を感心して眺めた。  

 黙って女の仕事を見守るように立ち止まりながら林を抜け、駐車場へ下る路を呼吸も乱 れない様子で歩む女は、よく眺?節めると今時の若い女性であり、控えめではあったが相応の 飾りも耳や腕にあり、健康そうな足元はこちらと違って汚れがない。跳ねるように歩いた わけだ。使っていたカメラは使い込まれたオートフォーカスのズームレンズが備わった本 格的な一眼レフで、フラッシュも繋いで、自在に扱っている。あれがほらバーベキュー。 と指をさし、こちらの車も肉眼で確認できる距離に辿りつくと、本当に一枚も撮りませんね。 と笑った。  

 ありがとうございました。と足元を揃えて頭をさげ、雑誌と自身の名字だろうの名前を 並べて、手を振りながら車の方へ走った。車を降りてからはじめて自覚的にカメラを構え、 シャッターを押した。望遠レンズであったから、女の撮り向いたバストアップを捉えたが、 ピントがぶれたかもしれない。  

 女は思いだしたようにこちらへと走り戻って、ポケットから、これあなたのではありま せんか。と白いハンカチーフを取り出した。私の前に歩いた人のものでしょう。地面に落 ちていたものをあの上に置きました。と説明した。  

 あんな所に置いたままなんて  
 何か酷な気がして  
 ポケットに入れてしまいました  
 可笑しいわね  
 あなたのではないとは思ったのだけれど  
 どうしましょう  

 困った顔をするので、辺りを見回して、今は閉まっている食堂と管理事務所を兼ねた建 物の入り口に歩み寄り、小さな紙に落とし物と女に書かせて石を添え、雨のあたらない窓 の脇に置かせた。こうすれば、私たちの気が済むわね。と秘めやかな吐息のような言葉を こちらの胸のあたり間近に零した。そっくりそのまま生き物の艶めかしい匂いを吸い込ん でいた。否、あなたの気が済んだ。とその香りに答えると、女は名刺を差し出した。駆け 出しなんです。自分の記事が掲載される雑誌の発行予定日を告げて、車へ走っていった。 広い駐車場をこちらまで迂回するようにセダンを寄せ、女はサングラスをかけて手を振り、 頭を下げて走り去った。こちらもさて帰ろうかと車に近寄ると、脇からご一緒にいかがで すか。と胸板の厚い男が、太ももに隠れるようにした小さな女の子と一緒に声をかけてきた。 調子に乗って作りすぎちまって。夢から醒めたような気持ちが起きて、誘われるまま に香ばしい玉零黍や骨付き肉をビールと一緒に頂いた。女の子が、おなかすいていたんだね。 と言われるまでものもいわずに夢中で骨をしゃぶっていた。こちらよりも随分と若そ うな夫婦が二組み、まだ舌足らずの子供を連れ、宴を広げていた。ひとりひとりにレンズ を向け、住所を聞いて送りますからと、礼を言い、暗くなるまで取り留めもない話をして、 遠く黒い塊になった原生の森をあとにした。  

 
 空間を大きく歪ませるような両脇に斜めに連なる地層の間を走り抜ける車の中で、電波 が弱いのかノイズの多いFMラジオの、やたらに笑う女性アナウンサーが大袈裟に喋る今 週の美味しい店を聴き、美味しいものはてめえでつくれなどと口ずさんで満腹な腹を左手 で撫でた。有料の路を出て、五月蠅い喋りが実にシックなジャズに変わり、夕暮れの山陰 に小さく灯りがみえると、ハンドルの間に、腰を曲げあのハンカチーフを拾って懐に収め た女の手つきの奥の瞳が、チフミの眼差しとなって浮かんだ。こちらの妄想が原生の中で 崩れ漂い、移り香となってあの女性に引き取られたような気がしていた。  
 蕎麦ばかりの毎日では、何か枯れた感じが身体につきまとうなと、跳ねて撮影していた 躍動の形を思い出しながら、明日からの食事を考えた。
  
 
 河までの途中に大きな郊外型の店があり、そこで、ダウンジャケット、下着、靴下、上 下のスウェット、スニーカーを購入した。汚れ物の洗濯はコインランドリーで、週に二、 三度の入浴の際に行なって衣服のローテーションはそれで十分清潔を保つことができた。 着古したものは切り裂いて雑巾にしてから捨てた。押入の下半分に卓袱台と風呂桶やらを 入れ、上には布団と他一切を入れてもガランとしていた。部屋にはガスコンロも冷蔵庫も なかったから食料などを買い込むこともせずに、ただ雑巾と手とスニーカーと顔を洗う為 だけに流しを使った。幾度と無く最初に戻って、生活を消すように卓袱台を部屋の中央に 置き、隅からこの空虚な部屋を眺めると、自らの肉体がこの空間には不適切、余計な形と して際立ち、膝を抱き抱えた手首から指までの線などが、生き物という淫らなモノなのだ なと悩ましく思わせたが、この形を受け取る何かが、この部屋にあるわけではなかったか ら拘りは生まれなかった。

 簡素な生活の形態は結局、安穏とした居心地というものを排除 する働きをする。怠惰に部屋に籠もることができない。眠って研く以外に、こちらにとっ てこの空間の意味がない。部屋を出る時の背後のガランドウに未練などなかった。このま ま帰らなくてもよいと幾度か簡単に考えた。指が消え失せてからは、魘されることもなく、 痕跡を懐かしむ視線を部屋の片隅に投げかけ、時には汚れた指で再現しようと近付いた。  
 
 一階の事務所で文字などに飢えていたことに気づき、古本屋で大正から昭和にかけての 小説を数冊を選んで寝床で文字を辿るようになった。小さな文庫本で嵩張りもしなかったが、 読み終えると同じ古本屋へ持っていき、金はいらないから引き取ってくれと渡すと、 商売ですからと購入した十分の一以下の数十円をくれた。誰が読んだか知れない汚れた本 の裏表紙の書き込みなどまで目をやって、出版年を確かめ、古い漢字や仮名遣いを、異な った言語のつもりで辿った。小説と一緒に買った辞書で、記憶に無いような言葉を引き、 成る程とすぐに忘れる程度の理解を印のつもりで、頁を折り返した。自虐的な告白めいた 私小説ばかりだったが、ありのままの吐露の描写に真っ直ぐに前を向き背筋を伸ばした姿 勢を感じ取って、何度か寝転んだ読書を卓袱台へ移したりもした。  

 ちわ  
 歩いているのを見たよ  
 ちっとも来ないじゃない  
 お寒うなりましたね  
 面倒臭い  
 アタシャ月に二回かな 
 否一度だな  

 コインランドリーで脱水から乾燥機に洗濯物を入れ替えている時、知古の友人であるよ うな、裏腹のない声をかけられた。焼鳥屋の手に下げられた二つの袋には、それぞれ清水 寺と宮島の写真が印刷され、ずっしりと膨れていた。仕方のない実務を行なう者の顔であ ったので、頭を軽く下げただ眺めた。コインランドリーという代物は、洗濯という観念に 隠れて、つまりあらゆるものを放りこむことができる。いつだったか、犬の糞を踏んだか もしれないスニーカーを投げ込んだ。赤ん坊が乾燥機の中回っていた事件もあった気がする。 焼鳥屋の洗濯物から肉の欠片がこぼれるのではといらぬ心配をしながら、空いている 大型三つ全てを使って洗濯をはじめようとしている男の洗濯をしたほうがいいのはこち らだと教えたくなるようにくたびれたジーンズをみると絵の具のようなものがこびり付い ている。洗濯されたからといって清潔とは言い切れない。それでも焼鳥屋は丁寧に、袋の 中で絡んだ下着とシャツを解きながら、種別に分けて放りこんでいた。そんな男の背中の 肩胛骨の動きを暫く眺めていると、母親の膨れてあかぎれた懐かしい手のひらがそこにい きなり浮かんで、焼鳥屋の背を撫でるのだった。

 オレはここにいるよかあさん

 声が出そ うになった。  

 修学旅行の時のものですか  

 中学の時かな  
 修学旅行の時に買った袋だ  
 おふくろが中に米を入れて送ってくれた  
 今時米なんてどこでも売ってるのに  
 実家は東京なんだ  
 おふくろは勿体ないからって何でもとっておく    

 振り向いて何を聞いていやがるという顔を露骨にして、それがどうしたと口を尖らせて 焼鳥屋は答え、椅子に座り棚に乱暴に突っ込まれていた、水分で膨れあがった古雑誌を手 にして、洗濯を待つ格好に落ち着いた。三十はとうに越えている。同居の家族はいそうに ない。互いに正体のしれない、若くもない男がふたりコインランドリーで二言三言会話を 交わして黙り込んでも、洗濯を呑気に待つ気持ちは壊れない。だが、なぜだか焼鳥屋の存 在に添うように無性に母親が浮かんだ。煙草を取り出して深く吸うと、火を貸してくれと 手を伸ばした。学生の頃の懐かしいような互いの怠惰を許しあった者同志の感覚が甦った。  

 自動洗濯機が弱く鳴って、こちらの洗濯の終了を告げた。少ない一塊りを解して乾燥機 に入れてから、東京は何処ですかと再びこちらから尋ねていた。千束。吉原弁天のすぐ近く。 と短く雑誌を見たまま焼鳥屋は答えた。乾燥機が止まり、洗濯物をたたんでバッグに 入れると、今夜どうだい。と誘われた。  

 路面に向って炭を焼き、通行人の胃袋に食欲を煽る香りの煙を団扇で運び、額には汗が 浮かんだ男の表情には、これまでに漠然と感じていた焼鳥屋の飄々とした、どこか学生臭 いイメージは無く、仕事をする人間の端的な形があった。炭火の熱さに唇を歪める時も、 汗を手の甲で拭う時も、一通り支度を終え、客の対応を冗談めかして転がす時も、焼鳥を 焼くという者でしかなかった。ハンバーガーの店などで元気に溌刺と声を出すアルバイトの若者の時間の限られた稼ぎにある無責任な関わりと違って、男はアルバイトだと言った が身の熟しをみると数年は続けている。一切が彼の手で行われる当たり前の態度が、ある 種潔く感じるのは、こちらの妙な先入観の為かもしれない。支えあうのはいいが、交換す る名刺で相手を捉え、こちらも正体を明かさないで済んだ務めを思い出し、集団を前提と して物事を考えた数年で物腰がすっかり依存の形をとり、家族にまで同じように、家族と いう集団を押し与えていたと愚痴が浮かんだ。この男に自分の母親を浮かべたことは、ど こかで自分を遠くから眺めるようなものを感じていたからかもしれない。  

 歩きながら見かける、公園に座ってサンドイッチと缶コーヒーを飲む背広の後ろ姿や、 路上停車されたタクシーの運転手がシートを倒して仮眠をとっている光景に潜む彼らのス トレスが、最初はそのまま懐かしくこちらに及んだ。だがファインダーを覗くと、そこに 疲弊した人間の、肩を落とした脱力感?節に奥歯を食いしばるように堪えているような凄味が 隠されていた。焼鳥屋の仕事ぶりが、そういった人々の暗闇を照らすように感じるのはな ぜだ。首を傾げて彼の油で輝くような指先を眺めた。  
 
 狭い縦長の、カウンターしかない店だったが、暖簾を分けると三人の客が既に赤い顔を して串を並べていた。焼鳥屋は顎で奥の空いた席へ誘い、ビールとグラスと栓抜きを前に 置いた。グラスはよく磨かれ冷蔵庫でビールと一緒に冷やされていた。隣の男が、おあい そと言ってさっさと立ち上がった。塩でいいよな。とこちらの返事も開かずに差し出した 皿には、カワとナンコツとレバーが三本づつ乗せられていた。丁度夕食時に重なって、注 文しておいた焼鳥を取りにくる主婦たちもいて、入り口辺りに座っている男にあんまり呑 むんじやないよ。と声をかけた。晩酌のつまみにと香りに誘われる人間も多いだろう。熱 爛を頼んで他に何ができるのと尋ねた。焼鳥の他は枝豆、冷奴といった簡単なメニューで、 腰を落ち着けて呑むような種類の店ではないが、日々の疲れを簡単に流すには適当で、パ チンコか此処かを選択する常連もいる。背広の二人が座ると店は満員になった。端の男が 焼鳥屋にビールを注ぐと、焼鳥屋は黙って一気に飲み干した。  

 燥いだ酒にはならない。背広の二人も会話らしいやりとりをしないで、ビールと焼き鳥 を交互に口に運んでいた。二合徳利一本か二本の蕎麦屋の晩酌の他は、部屋にも酒を持ち 込むことのない日々であったので、こうして煙の中呑む酒は無性に美味かった。  
 随分厚い鉄だね  背広の二人が帰り、カウンターを指で触れて尋ねた。どこにでもありそうな店ではあっ たが、目の前のL字に広がる大きめのカウンターは、端から端まで全て厚さが一センチは ある鉄板でできており、もんじゃやお好み焼き、あるいはステーキでもここで焼くことが できるのかと品書きを確かめる一見の客もいるだろう。所々グラインダーで研かれた跡が あり、醤油ダレの酸が腐食させるのか、客が帰ると焼鳥屋はカウンターテーブルの上の一 切を奥へ片付け、幾度も鉄板を拭く。触れると水平に炭火の赤い熱が伝わると思われた。  

 前はさ  
 ここが削ってなくて  
 ほら  
 キズものにされちまった  
 昼間に火花散らして研いてやがる  
 それでなんか塗りたくってよ  
 臭いのはわかるが  
 毎日店の中に放水して  
 洗うんだよ  
 鉄は錆びるだろうに  
 ちょっと足りねえよな  

 カウンターの角にグラスをコツっとあて、焼鳥屋の返事を遮るように右隣の老人が左腕 のシャツを捲って、身体を支えた際に鋭利な角で抉った腕に長く残る傷跡をみせた。焼酎 を舐める老人の声はだが、認めているような響きがある。焼鳥屋はフンと鼻を鳴らして、 お父ちゃん大袈裟なんだよ。ベビーオイルだよ。と答えた。  

 植物油とか使ったけど  だめ  
 これがいいんだよ  だけど  
 何度も塗り込まなきゃあいけない  

 ベビーオイルって赤ん坊に塗るヤツか
 マスターはこの鉄板を愛してるってことだな ふん

 弱く笑う老人に、お父ちゃん飲み過ぎだよもう帰ったほうがいいぜ。焼鳥屋はこち らを見て、まだ喰いますかと尋ねた。酒だけお代わりを頼み、どこかの工事現場みたいで すねと、老人の左手のシャツをおろして、ボタンを止めてあげた。徳利からグラスへ酒を 注ぎ、ゴツンと鉄の上に置き、指についた酒を舐めてから鉄板を撫でると、確かに薄く油 膜のようなものが覆われ、鉄の質感と思われない柔らかさがある。ホースで水を撒き、火 花を散らしてカウンターを研いた後、ベビーオイルを丁寧に何度か塗って、串に白い肉を 刺す焼鳥屋の一日が脳裏に巡り、その行為の流れに成程と肯きながら、新しい酒を腹に流 した。炭火で膨れ肉汁の吹き出る焼き鳥は、香ばしく酒を誘う。雑巾を何度か勝手に使って、 帰った老人の前のカウンターを拭くと、卓袱台を買った森田商店のガラスが敷かれた テーブルの空虚が同じ健やかさで重なった。酒が目蓋を巡り、指先が痺れ、酒に任せ、客 がこちらだけとなった店で、片づけをする焼鳥屋の立ち振る舞いをぼんやりと眺めてまた 酒を煽った。  焼き鳥じゃあ酒が飲めないんだよ。駅前のコンビニでウヰスキーを焼鳥屋が、こっちは ハムとチーズなどを買って、誘われるまま焼鳥屋の住処へと歩いた。

 今日はこれで仕舞う からつき合えと言われた時は、鉄板の意匠になぜか共感したこともあり、だらしなく唇も 垂れ下がるほど酒に預ける気持ちが勝って、他に断る理由を探せなかった。店の中で度々 母親が浮かんだせいもあった。片付けを手伝って皿を洗う焼鳥屋の前で鉄板を拭き、これ でいいかなと伺い、もうちょっとしっかり磨けよと云われて、肯いて繰り返していた。  
 ほら、壁に柿の木がくっついてしまっているんだ。屋根に実が音を立てて落ちるんだよ。 朝は壁際の細い道が女子校の通学路でさ、ピーピー五月蠅い。借家だという一軒平屋は六 畳がふたつ縦に繋がり、手前に小さな台所と便所があり、家の外には物置があった。噎せ た匂いのする部屋のひとつは、異常な量の書物と、敷かれたままの布団と、小さな炬燵で 埋まっており、奥の部屋にはわけのわからない模様のような画布が床に描きかけのまま広 げられ、ストーブの上には金属の器があって、褐色の塊に刷毛が固まって差し込まれている。 壁には数十枚が立て掛けられていた。絵描きなの。と尋ねると、自称とだけ言って、 台所から氷りを入れたコップをふたつ持って炬燵に座った。鉄のカウンターの店から画布 への展開に、こいつは一体何者だと焼鳥屋の細面の顔が霞んだようになり、それまでの酒 も手伝って吃音が内側に降り、ただ眺めるだけにしようとウヰスキーを口に含んだが、む しろ酒はこちらから抜けていった。このあいだ缶詰を火にかけたら破裂しちまってさ。天 井まで飛び散った。と指差した天井を支える柱に、コカコーラの瓶の破片が差し込まれて いた。窓際の柱に繋げられた自転車のチューブを指差してこれはと尋ねると、黙って近寄 り両腕で引き延ばしながら、こうやって鍛える。身体が肝心だからなと答えた。  

 しばらくは絵だけ描いていた  
 アルバイトをしながらな    
 今は蜜蝋をつかっている  
 夜中制作をする  
 火事を起こしちまった  
 なんであんたを連れてきちまったんだろな  
 多分あんたのいつまでも他人面をする  
 惚けた目つきだな  
 なんでいつもオレをじっとみるんだ  
 絵をみてくれ  
 ココロはこうやって画布の上に  
 みえるようにつくらなきゃあ      

 いつになく俯きがちに小さく喋る焼鳥屋は、もはや焼鳥屋ではなく、独りの絵描きとな って、創作の一端を垣間見せ、こちらの知りようのない淵に立った目つきで指先をみつめ てひどく静かに喋る。もう一度作品をみせてほしいと言うと、意外そうな顔をして奥の部 屋へ立った。    

 店に飾ったことがあった  
 それ何だって客が五月蠅いんだ  
 飾るのをやめて 
 雇い主に黙って鉄のカウンターをつくった  
 皆さん絵ってのは山とか川とか花とか裸とか  
 良し悪しの前に理解できないと駄目だってよ  
 わけのわからないものの前で  
 無防備に立ち尽くすのが  怖いんだ やつらは  
 作品には意気地や態度が残ってしまう  
 誰かの為にやってるものじゃないし  
 絵ってのはさ  
 手紙でも無し  
 祈りの果ての奇蹟では無し  
 意味なんか無い  
 だけどこれがプライドをつくってしまう  
 それに引きずられる  
 オレの場合  
 あれ以来誰にも見せていないから  
 自慰ってことにもなっちまうな   

 でもさあ 
 この頃 
 全く知らない人間の手つきで  
 真っ直ぐに線を引くことがある  
 そんな時は 鳥肌が立つ   
 髪が逆立ってさ  
 自分がとんでもないものに思える  

 呟くように話す焼鳥屋の部屋は、だが十分に創作のメソッドを組み立てた姿勢が顕れ、 乱雑に積み重ねられた書物も画集ばかりでなく、カテゴリーの異なる専門書があり、同じ 時代を生きたこちらも馴染みのある著者の名前もみえた。作品の全面に雨のように縦に無 数に引かれた線は、画布に盛られた蜜蝋を削るように彫られ、その凹みに幾度も異なった 薄い色が流し込まれて、奥行きのある空間や、具体的な形象が描かれているわけではなか った。先程店で巡らせた焼鳥屋の一日にこの制作を加えようとしたが、それではこいつは 眠れないという困惑で停止した。壁に立て掛けてある作品をみると、まったく同じ手法の ものばかりで、画布の裏にはここ数年を示す制作の年月日が記されていた。制作の新しい ものほど、縦に引かれた線の間隔は狭く、歪まずに真っ直ぐに引かれていた。こちらの眼 差しを導く種類のものではないが、どこか動物の亡骸に似ていると思った。  

 個展をやらないのか      

 自分の吐いた言葉に遅延して、森田商店が浮かんだ。焼鳥屋は何も答えなかった。ウヰ スキーを呑む気が失せて、乱雑な書棚から聞いたことのない作家の作品集を取った。独り でひとつの顕れに向かって、自身の全てを与え、その顕れから生のすべてを得ようとする。 絵描きに限ったことではない。米を作る者も、メーカーに努める人間も営みとしては同じ ように固執しなければやっていけない。だが、その生産性が社会的に消費され受け止めら ?節 れることが前提である場合は反復も安定するが、焼鳥屋の柿の実の落ちる部屋の中だけで 繰り返される生を営みと言っていいのだろうか。発狂を押しとどめるだけの作業ではない のか。手元の画集に俯いて、焼鳥屋が炬燵でぽつんと茶を飲み、自分の汚れた両手を眺めて、 疲れたと呟くことを堪えている光景が浮かぶのだった。  

 焼鳥屋は小さなカセットプレイヤーにテープを入れてスイッチを押して、音響を部屋に 流した。これは友達の作品なんだよ。色々な場所の音をサンプリングしてそれをただ並べ るように編集しただけのものだが、気に入っていて絶えず聴いている。街の雑踏から小川 の流れ。公園か何処かで遊ぶ子供達の声がグラスの中の氷の音に隠れる。雷の後の雨の屋 根を打つ音に薬缶の沸騰する音が覆う。グレコリオのような合唱曲も聞こえた気がした。

 此処に来て住んでどれくらいになると尋ねると、ああもう十年になってしまった。と答えた。  暖かくもてなす店ってのが我慢できない。嫌なんだ。ボトルキープってのもしていない。 常連はいるけど何も聞かない。さっさと喰って呑んで帰ってくれたほうがいい。昼間鉄板 をグラインダーで研くと、日雇いの突貫工事をしている気楽さが肉の鬱陶しさを払ってく れる。もう一回りでかい換気扇が欲しい。煙が目に染みて制作ができない時もある。ウヰ スキーをジュースのように喉で呑む焼鳥屋のカウンターの説明は、ひどく明快で合理的に 聞こえたが、鉄を選択した理由が抜け落ちていると言うと、鉄は、存在自体が他を拒絶している。堅牢なくせに尽きて塵になるまで燃えている。オイルを塗ると色が綺麗になるんだ。 錆を拭き取って、新しく燃える肌を用意してやるわけだ。鉄のカウンターの事を話し たのはあんたがはじめてだよ。みんなオレの事阿呆だと思っているから。  

 気にいったわけじゃないけど、あんたは阿呆ではないと思う。と答えると焼鳥屋は、オ レはホントに阿呆だと思い始めてた。と返した。
 
 最初は物珍しそうな顔をした  
 ちょっとした物知りや絵描きが店に来て  
 煽てたり中途半端な蘊蓄を垂らして五月蠅かった  
 でも 結局  お前は焼鳥屋だってさ  
 畜生って焼き鳥を焼いて  
 帰って線を引く  
 畜生って寝て  
 畜生って起きる  
 それに慣れちまってた  
 妙なヤツが街に来た  
 久しぶりに会った息子を眺めるみたいな目つきで  
 じっと眺めやがる  
 身元調査でも頼まれた探偵かと思ったよ  
 店で鉄板を眺めて酒を呑んだ客なんかいなかった  

 此処にいる理由がわからなくなり、立ち上がりご馳走様と靴を履いた。焼鳥屋はこれ持 っていっていいよと、先程手にした画集を渡してよこし、あげるんじゃないよ。返せよ。 これも。鉄の作家だ。リチャード・セラという彫刻家の作品集を渡され、こいつの実物を 観る為にバイト代ためて、飛行機に乗った。焼鳥屋は少し照れるように歯茎を出してはじ めて微笑んだ。  部屋まで歩く路で、グラインダーを手に火花を散らすのは、夜中の呼吸を止める制作を 導く手法に組み込まれているんだと勝手に考えた。幾度も森田商店を思い出したのは、冷 たいガラスのテーブルが、焼鳥屋の鉄のカウンターと似通っているからだろう。ガラスを 覗き込んだ空間に、焼?節鳥屋の作品が映っていれば完璧だが、それは叶わないと思った。  

 何も無い部屋に戻ると、乳白色のぽっかりと空いた部屋が、未熟で稚拙、臆病な神経を 病んだ者の病室のように感じられて、乱暴に服を脱いで放った。アイツらの住処だって無 性に空虚じゃないかと、自分の計画のどこが壊れているのか探そうと、押入から卓袱台と 布団を引っ張り出し、窓にセロテープで汚れた地図を貼り、プロジェクターのスイッチを 入れて部屋の灯りを消してから、座り込んだが、酔いがぶり返して部屋が傾き、出鱈目な 気持ちに負けた。焼鳥屋から借りたリチャード・セラを捲ると、ベルリンで手に触れた作 品の写真があった。あの時は、おそらく民族の国境を線で引く者たちの、壁という観念が、 島国の柔らかいものと全く違っているから、こんな凶悪なものを作るのだ。邪魔な壁だと しか思わなかったが、今こうしてみると切り詰めた仕草の抽象と受けとめられる。だが焼 鳥屋のカウンターのほうが鉄の意味以上を辺りに放っている。場所のせいだろうか。でか い刃を客に向けて持て成しているわけだ。水道で顔を洗い、水を飲んでから、卓袱台にス ーラージュという画家の作品集を置いて捲っているうちに横になり、「魂」か。と呟いて、 そういえばヤツの名前も聞いていないと、黒く塗りつぶされただけの作品の上に突っ伏して眠り込んだ。

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 列車からプラットホームに降り立ち、この街を囲む山並みから吹き下ろされる風という より大気の移動に身体を包まれると、全身の毛穴が広がって、豊かで力強い樹木の存在を 感じた。  季節はずれの炬燵の中で瓶にひとつ仕舞っておいたものに鼻を突っ込み細くはなったが 思考を切断するような臭みの消え失せるまで嗅いだのはいつだったか。これは糞だと吐き 捨てる倒錯を香りに加え、夢中になって拾い集め指先に染み込んだ銀杏の匂いが、どこか 近くで立ち上った焚火の香ばしさと交ざって運ばれ、数年はこの臭みを身から失っていた ことに気づいた。朽ちていく季節の欠片を萎えた肺がゆっくり膨らんで、細かな細胞の記 憶を刺激し、濃密な酸素が全身を巡る。  
 緯度を列車で少し北上しただけで、視界も広がった風な透明な大気がある。成程、プラ ットホームから見える街は薄く濡れ、瓦屋根やアスファルトの路面や電線には若干の雨の 名残があって、水滴が輪郭を発光させるように陽射しを反射していた。舞い上がった挨が 落とされたからだろう、遠い麓の家々がくっきりと浮き上がり、細かな鳥らの軌跡も軽や かに追うことができた。マイナスイオンを吸収して、弛んだ皮膚が張りを取り戻すように 漲って、額のあたりに、これまで幾度かの未知に降り立った断片が、現在の状況とどう符 号するのかわからないが甦った。忘却の果てに置き忘れていた、初対面だった筈の、陽に 焼けた男の喉元を絞るような笑い声が、横風で電線の鳴る音に振り返った時の、剥がれか かったペンキ看板の鉱物の発色の黄色となり、傾いた西日に照らされた、北の町の縁にひ っそりと祀られてあった巨石を蔽う紅葉の鮮血のように辺りに滲む赤が、そこまで辿る列 車から眺めた川底の珊瑚の亡骸、乳白色の石灰岩に並んだ。大気が圧倒する季節の内陸地 方都市で、真夏の海沿いの駅と、遠い北の町の業を不都合もなく呼び寄せ、上等なカクテ ルのようにトータルに心地よく頭蓋に染み渡るので、訳もなく淡く逆上せるのだった。   終着駅ではなかったが、車窓から二時間、地形の変化を眺め続け、ふいにまとまった人 気の固まりに辿り着いたという気分が下車を促していた。喧しい環境から逃れるようであ ったのに、無人駅ではココロが動かずに、人間の集まった徴が顕著である駅を選んだこと が、自身の邪な質と認めて、人気の無い場所はまいってしまうから、言い訳に寄りかかる ように改札を抜けた。  
 西に間近に見える山には旺盛な色が消え、錆色に落ち着いて季節の終わりを思わせた。 都市というより、こざっぱりとした小さな街で、駅前のロータリーに面したビルの壁面の 液晶モニターから、季節の映像と加減されたボリュームで流行の曲が流れ、小綺麗なホテ ルも幾つかみえた。デパートには枯葉模様の垂れ幕がかかり、ショーウインドーのディス プレイには綿を使った雪が早々とイメージされている。東西に走る大通り片側の街路樹は すでに枝を落とされ、残された樹木の枝振りも、数日中に払われるのだろう、少ない人数 でゆっくりと作業が行なわれている。建造途中のクレーンや建物も数えるほどで、そのせ いか時間を遡る退行の趣がしたが、清々しい光景と受けとめた。タクシー乗り場では、退 屈そうな空車が行儀よく並び、人の流れも相応にあり、都会と変わらぬ今風の化粧などし た人の顔があった。 
 観光案内所で手にした簡単な地図をみて、併設されている私鉄電車 の伸びる路線図と駅名を指で確かめてから、このまま乗り換えて揺られることにした。二 両編成の車内の吊り広告は、簡単明瞭で無駄がない。いかにも地域がらみと思わせるもの ばかりで、土地の流通や必要の形態を??象徴していた。所々にある全国共通の所謂「美し い」ものからは現実感が感じられない。乗客にもこの辺りの生活が色濃く現れて、公民館 に集った風情で、互いを認め合っているような車内の穏やかさに身を任せようと対面式の ボックスシートに腰をおろした。電車が走り始め、ローカルなアナウンスを聞きながら、 窓の外の低く続く町並みをぼんやり眺めた。楽しそうに笑う女や男たちの、語尾が伸びて 上がる癖のある方言の入り交じった雑談に気楽に耳を預けた。暫くするとその中になにや ら偽物臭い「寛容」が、「悪意」を纏って関係の弛緩のようなものを作り上げている印象 へと変わった。  
 都会特有の張り詰めた集団の忌まわしさを此処に併置相対させて、気持ちを批判的な縁 にゴリ押しした屁理屈のような旅人特有の印象ではあった。  
 世代がその前後から隔離されたような、十代後半だろう、数人毎に寄り添った若者たち の仕草や所在ない会話が、車両に広がる弛緩に犯されるようにして暗然に守られ、むしろ 甘えるように燻って、大人たちの会話と並んで互いに溶け合うバルールで点在している。 一見平和な穏やかな光景ではあった。だが、肉体の過剰を持て余し、理不尽な世界に敏感 に反応し、未完成な生を誇っていい筈の彼らに、どこかひどく老成した仕草が用意されて いる。大人たちの会話もおどけた神楽のような演技仕立てで、説教と啓蒙を誘うように盛 り込み、大袈裟で偏った恣意となって個人的な対話を逸脱し全体を手に入れようとする屈 折した伝達を望んでいる。老人の射精説法と言葉にすると哀しい。アニメやタレントのコ ピーの、茶色の髪の下から見え隠れする火照った頬と、散漫に浮遊するその瞳は、結局自 身を映す鏡を、窓や手摺りの曲がった金属面に探すナルキソスのそれとなり、何かを見つ める風であっても仲間の確認を取る以外は内側に籠もって幻に照らされ、見事に排他的で あり、時には愛想のいい八百屋の主人のような振る舞いで、見知らぬ母親ほどの女に相槌 を打ち煽てて果物を頂戴する。世の為人の為に生きてみたいよと平気で答え、頑張ってね と肩をたたかれれば照れたようにはにかむ。根は皆やさしいのよ。大人はひと絡げの理解 で終える。「未知」に無関心である様子は、老人や主婦たちのものと変わらない。この国 の地方都市という環境は、小さな家の構造を幻想として投影して構築されるのだろうか。 人間は皆家族であり、異なる者を必要としない。幾つになっても子供のまま支配する。例 え未知なる「外」がいきなり目の前に立ち現れても、その処理を何もなかったのだと残さ ぬよう隠す。「外」を現実的に機能させれば、自身のどこかが壊れ、あるいは変質する。 生理的な判断を前提として、未知を突放すしかない。この国の峠の交易、物々交換も長い 間そのようだった。哀れな琵琶法師の話は幾つもある。この列車の大人たちも、全く近頃 の子供ときたらと愚痴ることを遊ぶようにして、子供たちの下手糞な化粧や四方山話しを 無視しながら、自らの内側へ取り込んで楽しむ。擁護と支配を可逆的な立場の詭弁として 使い分けている。甘い無視に慣れた子供たちは、自らの存在を脅かし、同一性を確かめる 探求の触手と好奇心を抱く世界を知りたいと思わない。と続けて、だがこれが成熟した空 間と人間でもあるかもしれぬ。と転じる。百匹目の猿は特別な空間に産み落とされるわけ ではないにしても、この穏やかさは、だが気味が悪い。  
 批判的な感想が生まれるのは、旅人気取りの傍観の立場であるからと、自らを言聞かせ て、所詮こんなものだ。クロイツベルクの古いマンションの一室で上映されたパゾリーニ のテオレマを一緒に観た若いゲイの建築家の卵の、絶望的ニ解体スル家族ハ、未来ノ可能 性ナンダヨネエーと、イタリア料理の店でワインに酔いながら赤い瞳で零した囁きが膝の ?? あたりにきこえた。背負うものなど何もなかった無責任な若僧の、取るに足らない酒 の席で、こちらは「可能性などない。解体が永遠に持続するだけだ」と野次っていた。  この地方都市は、不変であることが大切であって、果てしなく愚図愚図している状態が 場所の本質であるとも考えられる。おそらく太古からそれが培われた。生存の手法でもあ るかもしれない。そして知らぬうちにこちらは此処を選んだ。いっそのこと排除と洗練の 反復が時間の層となった古の街を選べばよかったか。電車の揺れに、淫らな観念を出鱈目 に組み立てたせいで印象は飛躍を繰り返した。 
 数時間前、新宿まで乗った、尖った視線 を壁や肩に突き刺す無言通勤列車の、オスたちに囲まれて、眉間に皺をつくり噛み締める よう真っすぐ前を睨んで、むしろその猥雑な視線を直に胸元で受けとめるようにして自身 を守る女子中学生の、強かで艶のある力を垣間見せる表情を思い出し、それにしても、オスたちのあそこまで非情な視線をあからさまに突き立てる臆面の無さも凄いものだと、他人事のように腹の底に言い捨てて、非情さというより、人間のある種険悪な斥力は案外、 従来的な力を踏み超える現実的なシステムなのかもしれないと弁えた。彼女の対極には、 確かにああいった視繰を超然と玩んで跳ね返す強い色気も自我もあって、そんな時オスたちは目を逸らし尻尾を巻く。だがいずれにしても、関係が切り詰まつてこそ生まれる力だ。 この二両編成の列車は、皆が匿名性を帯びた両親と子供となって、神楽を舞うように延々 とのこのこ走る。二両編成と通勤列車にみつけた悪意の差異が不明瞭になって、まさかこ の毒の吹き出た棘のような悪意こそが、人間を喚起させる本来の力であるような気持ちが 重なり意識が朦朧と霞む。  
 所属や立場、繋がりの無い勝手な思いを、なぜこうも唐突に浮かべ巡らせたのかわから ない。こちらは辺りから浮いて睨みつけるようだったのかもしれない。向かいのボックス 席を占領していた四、五人の高校生らしいグループの一人と視線が合ったのだろうか、焦 点の定まらぬ想念に感けるこちらは気付くのが遅れたが、燥いだ時間が消えて、彼らは囁 くような会話を残して静まり返った。隣に向かい合わせで膝を交えた初老の夫婦も、同調 するようにひっそりと押し黙り、窓の外を見るばかりとなって、列車の横揺れとレールを 軋ませる音が交互に絡み、束の間の迷妄とした想いを転化させ、さてはココロを読まれた かと、俯いて指先を眺める高校生の、光の透き通るような耳たぶに輝く、駄菓子屋で売っ ているようなピアスから、髭が伸びた頬、細く剃られた眉を見つめると、生まれたての赤 ん坊の無垢の、未熟で完璧な美しさをそこにみつけたような眩暈が起きた。自身が育てて もおかしくない彼らの存在が、迫って然るべき対峙のヴィジョンをこちらの何処かに求め るのだった。偏った考えを収め、自分の感想が一体どのような根拠で生成されるのかよく わからなくなった。窓の外は刈り終えた田や畑の広がる風景となり、この乗客達が何処に 行こうとしているのだろうかと不思議な気持ちになった。 
 四十分ほど揺られ、七つ目の 駅で降りるまとまった人たちに誘われて下車した。黙り込んだままだった若者達が、ホー ムに降りたこちらの背後に向けて真っ直ぐに素っ頓狂な罵声を投げた。思わず振り返って 手を振ると、宛ら性器の発達した幼児のような表情で、ポカンと口を開けて不思議そうに こちらを向き、先程老夫婦の座っていた席の押し開けられた窓に頭を行儀良く並べていた。
  一人が中指を立てた手首を窓の外に恐る恐る出したので、吹き出した。   

 先生のこと友達か何かだと思っているんですよう  
 去年までお世話になりました  
 ワダです  ワダ アツシです

 背後からいきなり見知らぬ女が話しかけた。振り返り、女の独り言を遮るように、こち らと同世代だろう中年の女の瞳に向けて首を振り、違いますと続けると、私は母親でアツ シは息子ですと、何を取り違えたのか、襟元を直しながらこちらの足元から脳天までを辿 るように眺めるのだった。踵を返してそのまま改札に向かった。融通の利く高校教師にみ えたにしろ、女の確信ぶりと、独断を疑わない姿勢に腹が立った。歩きながら再び振り返 ると、ワダアツシの母親に二人の女が詰め寄って、そのうちのひとりがこちらを指さして から、中指を立てて仰け反りながら互いを叩き馬鹿笑いが風船のように膨れて割れた。そ れを聞いてなぜか幸先の良い徴と捉えて、勘違いなど何度されても構わないと思うのだった。    
 簡素な駅前の小さな不動産屋のガラス戸に貼ってあった部屋の案内を見て、この街に住 むことを即座に決めていた。特徴のない街で、ここ数年あまり変化がない。山を越えると 県外からの客も多い温泉がある。ペンションも増えてはいる。スキーができるから。不動 産屋の男は、この辺りの様子を説明しながら、物件の下見をしないで決めたことがマニュ アルにはないのか、あるいは何か物騒な想念があって気がかりだったのかわからないが、 本当にいいんですね。と三回繰り返したが、現金で契約を済まし、更に先三ヶ月分の家賃 を支払うと、陽当たりもいいし、築三年ですからと物腰を柔らかいものに変えた。住民票 などの書類の手配を促され、後日伺います。これでよろしいですね。単身赴任ですか。大 変ですねと続けて、こちらの都合までを勝手に決めてくれたので、そういう事にした。近 頃は若い人も古い狭いを嫌いましてね、贅沢言って。こんな季節でもワンルームとか残る んですよ。学生や独身のサラリーマンもこの辺りよりもっと賑やかな所を好みまして。中 年の一人暮らし自体が珍しいのだろうと合点はしたが、では一体どうのような人間が部屋 を借りるのか。部屋の使い勝手などを教えられていると、見るからに稚い男女が仲良く手 をつないでドアを開け、狭いソファーを譲らねばならなくなったので、部屋の鍵と契約書 のコピーを受け取ってそのまま外へ出た。背後で、やっぱりアレにしますうと、甲高いは しゃいだ女の声がした。  
 車高の低い金色のホイールをはいた真っ白なクーペが不動産屋の前に横付けされていた。 客を選ぶわけにはいかない不動産屋の男の一日の応対をみれば、おそらくこの土地の人間 と生活の大方を象徴するだろう。まだ見ぬ部屋のある建物の方向を遠く探すように歩きな がら、しかし幼児のように手をつないで、つながった形をひとつの人格として他者に向か う若いカップルの、何か赤裸々で儚い形が残った。  
 列車の客といい、いきなり声をかけた女といい、現実からズレた世界に迷い込んだ感触 が拭えない。慣れない世界に土足で入り込んだこちらが、いかにも余所者であって、いい 加減な想念を転がし続けた疲れのせいだ。と唾を道端に棄てた。放射線状に三本の路が駅 前から延びて、スーパーマーケット、銀行の支店、豆腐屋、八百屋、肉屋、靴屋、仕立屋 などが建ち並び、脇を細く繋ぐ路地には酒や食堂の看板が見えた。人影は疎らで、コンビ ニエンスストアーが一番の光に溢れていた。歩道に屋根の架かったアーケードは積雪の対 策を兼ねているのだろうか。??自転車ばかりが目立つ小さな街で、東にはざっくりと削り 取られた山腹が建物の間からのぞき、手の届くような感覚で林檎と葡萄の畑がその麓にい くらか広がっていた。おそらく街道沿いの宿場として延命したのだろう、発酵食品を扱う 老舗や、木造の旅館もあった。少し歩いてぶつかった、幾つもの異なった地名と矢印と距 離が表示され分岐している五差路の脇には、傾いて形の崩れかかった石標が残され、移動 の拠点としてそれなりにこの場所が長い時間重宝されてきたのだと理解した。新開の宅地 は、この宿場を囲む周辺に、畑をカタカナの名称のアパートへと変えた、小綺麗だが気恥 ずかしい色の建物や、必要も無さそうな月極駐車場と共に、田畑を潰して出鱈目に広がっ ている。賃貸を決めた部屋は、駅から緩い坂を登るように歩いた十五分ほどにあった。ド アを背に回廊に立つと、西に遠く大きく蛇行する河とそこへ流れ込む赤茶けたもうひとつ の川が望めた。最初に降り立った蛇行する河の向こうに霞んで見える地方都市のベットタ ウンとして移り住む人もあるだろうが、それほどの利便性や環境が約束されているとは思 えない。むしろここを南北に通過する街道自体が、それぞれの時代の動脈として勝手に進 化し、それに伴う観光や開発に手を貸す街であり、それ以外に特別なモノがあるとは思え なかった。  

 部屋がある三階建ての一階は安藤工務店という建築会社の事務所となっており、建物自 体がこの会社のものだった。二軒隣には、この辺りでは珍しい銭湯があり、だから部屋に は風呂はないと不動産屋に説明されていた。だが銭湯は、草臥れた風にモルタルのひび割 れは放置され、所々剥げ落ちている。隣には小さく付け加えられた風なコインランドリー と、煙草や飲み物の自動販売機のコーナーがあり、クリーニングの店舗が銭湯の暖簾の脇 に大袈裟な看板で営まれていた。いずれ五差路に繋がる筈の、建設会社の建物から更に登 った所でぶつかる街道は、南北を結ぶ交通量の多い古くからあるもので、その奇妙な曲折 に何度も手を加えながら、一本松を避け、またあるいは家の離れの物置をぎりぎりにかす めるほどに乱暴に拡張され使い込まれている。沿って、幾度と改築改装を余儀なくされた 痕跡を露骨に残した、取り繕ったような家々が並び、ファミリーレストランがポツンとあ って、名称のディスプレイの一部が欠けたまま、車や自転車で集まる主婦達の井戸端とな っているのだろう、窓から太い腕が幾つも見えた。  
 風呂敷に入れてから振り回して投げ出したような、この国ではどこにでもあるありふれ た街並みは、暮らすことが何か暫定的で、中途半端な決断が散乱している。大きな運送ト ラックが走り抜けると、埃にむせた植え込みの葉が細かく震え、姿の見えない飼い犬が同 時に何匹もヒステリックに吠えた。全てにおいて渉ばかしくないこの街に身を置くことで いつか精神も肉体も馴染んでガラクタになるだろう。犬の雄叫びはむしろ正常な反応と思 えた。部屋に入ると以前住んでいた人間が使っていたのだろうガステーブル、電気スタンド、 折り畳みの小さな椅子が残されていた。それに妙な恣意を感じて不動産屋に公衆電話から 尋ねると自由ににしてくれと言われた。まだ新しいモノだったが、ガステーブルのグリル 内には、悪戯に火遊びをして、出鱈目を焼却したような、炭化した汚れ物が詰まっていた。 椅子とスタンドは十分使えそうであったが、一階の事務所に挨拶をした際に教えられた不 燃物置き場へ全て運んだ。モノには人の気配が色濃く刷り込まれる。眺めるだけで動く人 や溜息までもが浮かぶ。なるほど墓石が故人の身の回りのモノで代用された??ら、残された 者は辛い。墓場ではなく生者の彷徨える霊場となってしまう。戒名を彫り込むだけの抽象 でよいわけだ。事故でも起こしたのだろうか車輪の曲がった子供の自転車、汚れた風呂の 蓋、扇風機、靴ばかり入ったビニール袋、酒のビン、潰れた空缶、破れたマットレスなど が、すでに置かれてあった。脈絡無い眺めは、ささやかな消費の淘汰の果てと映ってセン チメンタルな気分にさせる。唐突に「美しい街に住む美しい住人」という言葉が浮かんで、 そんなもの何処にあると首を傾げた。すると背後から声をかけられた。  何しろ急な事で  片付けもしていなくてすみせんでした  電話があって  まさかすぐに来られると思っていなかったので  椅子は使えると思ったんですがね  まだ若い清潔な仕事着を着た男に頭を下げられ、こちらも簡単に挨拶をして、後日又と だけ言って部屋に戻った。六世帯が三つづつ二階と三階にあって、借りたのは三階の端の 部屋だった。他の住人についての説明はなかった。こちらも尋ねなかった。 
 
 数日の間は、 食事はほとんど駅前の蕎麦屋で済ました。昼は簡単なサンドイッチなどで 繋ぎ、自然と夕方を迎え、徳利二合の酒を腹に流してから大ざるを喰った。薬味の山葵も 直に摺りおろした香りの良いものが添えられ、蕎麦湯で残りを流し込むと身体も暖まり、 部屋の布団を想うばかりとなった。朝は何も摂らなかった。何もない部屋を水を絞った雑 巾で研いてから、漠然と方角だけを決めて歩き、日に幾度か部屋に戻ることもあったが、 それ以外に特別な目的を持たないように淡々と徘徊した。部屋も一日が過ぎると研かれる ことを望むように埃をうんだ。たかが一部屋を雑巾で拭くことで、反復が充実する。一軒 の家を預かる者の気が知れない。  
 中古カメラが並ぶ駅前の小さな店で、白黒のフィルムを求めた。在庫がこれだけしか無 いとトライXを三つカウンターに置き、近頃白黒フィルムは売れない。注文しましょうか と主人に尋ねられ、プリントはできるのかと尋ね返すと設備はあるという。あまり大きな ものは駄目だと、紙焼きするバットを出してきた。これ以上は他へ発注します。私がプリ ントします。久しぶりだなあ。証明用写真の撮影やネガフィルムの即時プリントの大きな 機器の横に、フードを被せた引き伸ばし機が置かれていた。1ダース注文すると、まだ三 十ほどの若い主人は、お仕事ですか。と肩に下げたカメラを指さした。中古が割と豊富で、 随分古い形が綺麗に研かれてガラスケースに並んでいた。壁にはおそらくこの男が撮影し たのだろう、雪山の写真がパネル張りして飾られ、趣味と実益が適っていることを説明し ていた。これはねえ645で撮影しました。中型はお持ちですか。フィルムも近頃は性能 がいい。交換レンズは中古ですが揃っていますよ。話し好きな若い主人は、こちらの返事 も待たずにあれこれ細かく話しかける。低感度のポジフィルムを三本を購入すると、私が 主催しているんですが、よろしかったらどうぞいらっしゃいませんかと、ヌードモデルの 撮影会のチラシを渡され、手元の月刊誌を取り出し、会の紹介が載りましてと続けるのだった。  
 カメラを長い間手にして歩いてきたのは、子供の頃からの幼稚なフェティシズムと思う ことにしている。車やバイク、模型飛行機や様々な道具を日々抱き寄せ触れて使うことと 同じ。メカニックな目玉とか、高性能の器官の延長だとか煽てて、カメラがあれば見えな いモノが見え、気付かなかったコトに気付くと叫ぶ輩に興味はなかった。鉛筆とかカッタ ーのように酷使に耐えながら必要を満たすだけでいい。  
 カメラ屋の隣りにあった実用書ばかり多い本屋でこの辺りの地図を探した。観光案内の 類は随分ある。他は道路地図で縮尺も大雑把なものしかないので尋ねると二万五千分の一 のものが本店にはあると言われ、電車に乗ることとなった。降り立ったまま足を運ばなか った地方都市を地元の人間の感覚で歩き、教えられた本店でこの辺りを網羅してつながる 六枚の白地図と、隣のデパートで十八色の色鉛筆のセット、セロテープなどを購入し、家 具売り場など歩いた。これ以上の用事も必要も無かったので再び二両編成で部屋に戻り、 地図を床に広げ繋げてセロテープで貼り、部屋の場所とこれまで歩いた路を、黄色の色鉛 筆で辿って残した。白い地図を暫く眺めると、視線が歩行の真似をしてよたよたと記号を 踏みながら等高線を数えて峰に立ち、ふわっと跳んで河を下り、四角い点で示された過疎 の村の家の前でその様子を窺うように座り込む。これまでもバイクなどを乗り回した成果 を自覚するために同じようなことをしたことがあった。地図というグラフィックは、余計 なことを想わずに長い時間見つめることができた。 
 一眼レフに白黒フィルムを入れて、 私鉄からも何となく眺めていた、地図にも大きくある河川敷まで歩き始めた。この街全体 がおそらく赤茶けた河の扇状地なのだろう、なだらかな斜面にあって、私鉄の踏み切りを 越えると、宿場の面影を深く残す家々が残っている。街道からそういった家の脇へと細か く切れ込んだ路地があると誘われた。民俗資料館と板に書かれた、個人が趣味で行ってい る家で、戦前は製糸工場の建ち並ぶ活気のある場所であったことがわかった。芸者もいたんですよ。と資料の整理をした老人は何処か遠くを眺めて教えてくれた。部屋の西側の窓 から眺めてそう遠くないとふんだ河川敷まで意外に距離があって、然し、その距離に悩ま される理由も制約も無いのだからと、呑気に構え、寄り道や迂回を好んで歩いた。  
 
 写真撮影をいつからか歩きながら、眺めの句読点のような仕草で行うようになって、そ れが単なる点、丸に成り果てた。西日が美しいと感じる時は、ただ眺めを持続させ、印象 の萎えるまで何もする気が起きない。だからその逆光に映えるなにものかをフレームに捉 える行為は、わざとらしいイカサマで、恥がフィルムに感光した。印象は記録できない。 事実をカメラのレンズとシャッターと絞りで克明に捉えるだけでよかった。瞬間を仕舞う。 だから、瞳が光景に立ち止まる、印象の生まれる手前で、路地や建物にむかってシャッタ ーを咳のようにクシャッと押している。肩のカメラを忘れて歩くことも多かった。忘却と 記憶を考えて写真を捉えることは意味がなかった。再生される記録には、あの時はこうで あったなと照らし合わす記憶ではなく、あの時から、今も、そしてこれからもこちらと決 定的に関係の無い、変わることのないどうしようもない其処という現実が、こちらを拒絶 するように映るのだと理解して、プリントやポジを眺めながら、そういった世界の途方も ない有り様に打ちのめされることこそ望んだ。黄昏時のコバルト色の空ばかり映ったフィ ルムを眺めて、酒は幾杯もすすむ。河川敷には子供の姿もなく、広く緩慢に整地された野 球グランドのホームベースは破れて、一塁ベースは水溜まりの中にあっ??た。近くの茂み には、パーツが盗み取られフレームだけとなって腐食した小型バイクが数台倒れハンドル には植物が絡み、その横の不法投棄禁止の立て看板も、朽ちて傾いている。畑を挟んで大 きく蛇行する河の水面は濁って、所々深みや流れの速い暗さがあった。休日には家族連れ などがバーベキューでもするのだろう、向こう岸の河原に石を積み上げて、火を使った跡 が黒くお灸のように残っている。狩猟が目的ではなさそうな釣り人が遠く点在していた。 地図には第一級河川と示されていた。こちらはそもそも河との付き合い方など知らない。 大雨で氾濫すれば、あのグランドも畑も流される、人も死ぬだろうなと、埒も無いことを 思って、河原に腰を下ろし、遠くに見える壊れた山を振り返ってから、流れをみつめる前 にシャッターを押した。 地図は部屋を中心として、外側に紅葉に染まった様な色となって 汚れた。歩きながら何も思わずに撮影したフィルムの撮り終えたものの現像とプリントを 件の店に頼み、その際に棚にみつけた中古の小さなプロジェクターを購入した。ソフトケ ースの裏には病院名が記され、眼科で使われていたものらしいと説明された。発売された 新型のカメラを開発当事者の熱心さでしきりに勧める主人に、マウントを注文して、6X6 のレンジファインダーの中古はないかと尋ねると、私が持ってますとわけのわからない返 事をされて、その続きを根気を出して待つと、よく映りますが、やはりこの新製品が素晴 らしい。こちらを一向に理解しないので諦めて店を出た。大家である一階の建築会社の事 務所に立ち寄り、社長に会いたいと言うと、例の跡取りらしい男が、ああ三階のと気楽な 感じであらわれた。部屋の壁を変えたいと率直に申し出ると、何か不都合でもありました かと、名刺を差し出しながらソファーに座った。壁はベージュの小さな凹凸のある化粧壁 で、暮らす上では問題がないけれども、実はスライド写真を投影すると、その凹凸が邪魔 なトーンをつくって像の輪郭がボケる。正確な像を見ることができない。スクリーンを探 したが小さなものしかない。できれば白い艶消しの壁紙で張り直していただきたい。  
 暫く部下と相談した若い跡取りは、すんなりと構いませんよ、でも結構かかりますが。 こちらの仕事の詳細を詮索するでもなく応じてくれた。壁紙のサンプルを渡されて、この 中のものならすぐにできます。預かって部屋に戻った。  
 スライドを投影することが理由ではなかった。投影はまだ試していなかった。日々の日 課となった部屋を研く反復でみつけた、窓の脇の壁の床との隅の、人の手のひらの形を示 す指先の痕跡が、どうにも身に堪えるようになっていた。日によってその指先の仕草の含 みが異なった。簡単には拭き取れない。意固地になって擦ると排除の意志が傷となって逆 に大袈裟に滲んで広がるので放っていた。磨き込んだ際の自分の手さと考えて、何度か痕 跡に自身の手のひらを重ねる無駄をしたがズレた。指先が床に向かって少し開かれたその 手のひらは明らかに女性のものであり、どのような仕草で残されたのかあれこれ理由も考 えてみた。例えば引越時に身を支えたような力の跡も無い。窓際で身をふたつに折り曲げ、 踵あたりの壁に指を静かに添えた。すると出来る。その意味の途切れた姿勢が壁の前に膨 れた。  

 夕暮れの何もない部屋に戻る度に、女が身体を折り曲げて待つようになった。最初は淫 らなことを簡単に抱いて、下着姿で軽い運動をしていたのだろうと、健康な身体を思うだ けで済んだ。布団を敷き寝返りを打ち、寝付かれず闇に目が慣??れてから、月明かりが壁の 一点を示し、折れた白い裸体が浮かんで空気が硬直した。一度ではなかったがある時、カ ーテンの無い窓から差し込む月の光は、時間と共に明るさを増し、グレーだった手のひら が黒々と色を変えて鮮明になった。何かに縛られ、こちらも目が離せない。身体がふたつ に折れているので、髪が床に広がる。凍り付くような時間に堪えきれず、小さくドウシタ と口から出た。

 ・・・・・グズデイコジデガワイイガ・・・・・  

 囁きが耳元に触れた。背骨から繋がる首の付け根の背後から、顔の知れない男が唇を近付けてぼそぼそと喋る。尻の穴に猥褻 な感触が走り、陰嚢のウラを掻き回すように突っ込まれ、こちらのペニスを後ろから鷲掴 みにされ、身動きが取れないまま激痛の中果てた。 男の汚れのどろっとまとわりついた太い指先が、布団の紫陽花の花の上に置かれていた。 身に覚えのない夢を引きずって、まだ陽も昇らない薄暗い部屋に起き、女ではなかったの かと壁に近寄ると、男のものとは思えない。窓に映った顔に小さな汗が浮き出ていた。ど こまでが夢だったのかと窓ガラスの見たことのない白い貌が考えていた。

 霊的なコトに怯えているわけではなかった。魘されても自身の問題であるとわかってい た。部屋を何も無い状態で殊更に片付け研くから、些細なことがクローズアップされて、 そこに意識が集められる。白い半紙のひとつの小さな黒い滲みのようなものに過ぎないが、 黒子のように馴染む諦めは生まれない。見つめるたびに出鱈目な物語がはじまってしまう。 指先に何を塗った。何をしていた。名前は。と続けて始まりに戻る。指先には確かに男の 動きが潜んでいると思い込んだ。 

 依頼してから三日後の朝早く、建設会社の下請けの職 人が二人、部屋のドアを叩いた。 何もない部屋に驚きもせず、壁紙を手際よく剥がし始めた。窓のある北側の一面が剥がさ れる頃、跡取りが顔を出して、何もないですね。と声をかけた。午前中にはできるでしょ う。と下へ誘った。事務の女性にコーヒーを入れさせ、できるまでゆっくりしていてくだ さいと奥に消えた。  
 一戸建てを主に扱う小さな会社で、壁には設計士免許や仕事の記録だろう建物の写真が 飾られ、大工からの叩き上げらしい父親を継いで堅実に現在に至っているようだった。久 しぶりのコーヒーの香りも味も上等で、お代わりを頼んだ。置かれていた建築雑誌を手に 取り、頁を捲って時間を過ごした。昼近くになって壁を貼る男が顔を出すまで、雑誌に夢 中になっていた。  
 新聞もテレビもラジオも無いことに気が付かずにいた。そういえば文字すら眺めていな かったので、内容がこちらと全く関わりがない数字の羅列であっても、それを追う目が喜 ぶようだった。  
 柔らかいソファーに沈み込んで、学生の頃の似た気分を思い出した。厭世を抱きしめて、 友人とふたりで一日中教育テレビを眺めて過ごしたことがあった。化学の実験の番組や、 女性三人の体操、幼児や育児番組、料理や囲碁などを、黙って長い時間真っ直ぐにみつめ ていた。暗くなって友人は帰った。何かしなければいけないという甘い切迫感はあるのだ が、手法を構築する意気地は欠けていた。  
 世界はこうもくだらないという稚拙で簡単な悲観を共有しただけだったがあの時確かに 何度か、どうしようもないような実験と、繰り返される歴史の説明などに、飛躍や省略、 時代の独断をみつけ、強引で出鱈目だなと顔を見合わせ、世の中隙間だらけじゃないかと 呆れながら、その横暴さを逆に頼もしく思った。視線をズラせば皮相な好奇心は生まれた。 真面目に真っ直ぐに生きる必要はない。麻酔で痙攣するカエル、水俣病のドキュメント、 アダルトビデオの女優の喘ぎ、健康な子供、唐突な飛行機事故、清涼飲料水のコマーシャ ル、熱狂、天気予報などが延々と差異なく目の前に並び、感想の生まれない注視だけが発 酵し、得体の知れない覚醒を促した。  
 こうして空虚な時間を仕組みながら、設計図の寸法がこちらの無垢に広がる。無垢を探 し当てた。この感覚が何に繋がるかはわかないが、肉体とココロの整合を素直に感じてい た。もう一杯コーヒーを頼もうと思った時、ドアから顔をだした下請けの男がこちらに向 かって会釈し、事務の女性に、社長呼んでくれと声をかけた。    
 跡取りに促されて部屋に入ると、乳白色に床が反射する壁が仕上がっていた。指は失せ ていた。髪の毛の茶色い連れの若い男のてきぱきと道具を片付ける手際が、見ていて気持 ちがよかった。  
 いかがですか。跡取りは振り返って尋ねた。我儘を言って手間をかけさせてしまって申 しわけありませんでした。と答えると、頂くモノはいただきますからと笑って、壁の状態 を手で触れ、下請けの職人の方を向いて肯いて労った。事務所で受け取った請求書の金額 を銀行に振り込む旨を伝えると、それまで寡黙だった職人が、剥ぐほうが大変なんだよね えと小さく呟いた。臆病だなと言われた気がした。  
 跡取りは、親父は昔の親方気質でうちで働く人間を住まわせるつもりだったらしいけど、 皆家族がいてね、若い連中も実家から通えるんで、賃貸にしたんです。しかしまあ、何も ありませんねこの部屋は。何もないことを繰り返されて、余程水道の水の色のことでも話 題にしようかと思ったがやめて、すべて此処にはいりました。と答え、押入から卓袱台を 出して部屋の中央に置くと、成程、座ることは出来ますねと、自分の言葉に困惑するよう な妙な顔を卓袱台へ向けた。地図に残した色鉛筆の錯綜も隙間のない拳ほどとなった。日 々気のむいた色で一日の歩行を思い出して辿るので、部屋の近辺は色が重なり、時々悪戯 に唾で濡らした指で滲ませた痕なども淡く広がり、記録というより、果物をぶつけた不細 工な跡のようにしか見えない。散漫にと意識的に違う路を殊更に選んでいるわけではなか ったが、結局この部屋から出かけて戻るという反復は、拙い歩行の律儀な蟻を思わせる。  

 出来上がったコンタクトプリントを細かく切り取り、広げた地図の縁に並べて置き、そ れぞれをその現場へと結ぶと、凶悪な事件を追っている者のような顔つきになるのが可笑 しい。夕食を終えてからは、必ずスライドを投影した。色彩の眩しくて鮮明な光を、長い 時間眺めた。ポジフィルムは全て広角レンズのコンパクトカメラで撮影していたから、遠 近が誇張され、実際の距離よりも間延びして、世界を両手で掬って傍観するつもりが生ま れる。露出の調整ができるカメラであったので、快晴の日は露光を絞ると空のどうしよう もない色が残った。  
 光の瑞々しい午前中はやはり鮮やかで、埃に噎せる午後の記録は少ない。住宅街に入り 込み、布団を干した軒先を何気なく撮影した一枚に、その家の主婦らしい女性が部屋の奥 の暗がりからレンズに訝しそうな表情を向けている。変質の者と慌てたのかもしれない。 この辺りにもあるだろう神社仏閣や観光名所ならば、カメラをぶら下げて歩いてもおかし くはないが、昼下がりの住宅街となれば、カメラを自宅に向けられるのは確かに不愉快且 つ不気味だ。これからは職務質問に相応な理由を用意して歩かねばならな??い。自由な振る 舞いはかえって不自然というわけだ。  
 プロジェクターのスイッチを切って、窓を開けると、月明かりに照らされた扇状地の街 並みの灯りが広がる。天麩羅の香りが漂い、どこかで酔っぱらいが、この野郎と小さく叫 んでいた。こんな夜はなぜか犬は吠えない。

卓袱台

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 引き戸を後ろ手に閉めると、金属質な籠りの中、植物が鼻孔から瞳の奥へ薫り差し瞼が 潤んだ。河原の土手をダンボールで滑り落ち、笹の繁みの中で緑色が滲んだ膝小僧を頬に すり寄せた身体の形が皮膚の下に弱く広がった。深く吸い込んでから呼吸を整え、目を凝 らしたが、店の中にはそれらしいものは見あたらなかった。  
 雨の残りが俄に降って、駆け込むほどではない軽いものだったが肩は濡れていた。知ら ぬうちに身体に染みたのかなと袖口に鼻を近づけると、手の甲に黒いものがぽたんと垂れ た。  
 ほんの数分前、お互い驟雨に慌てたのだろう、今時の赤い長髪に隠れた華奢だが固い肩 が額に当たり顔を顰め、妙に女性的なコロンの香りが鼻につく白いツナギ姿に身を構えた のだったが、意外に繊細な柔らかい声でスミマセンと腰を曲げて頭を下げられ、痛みは和 らいだ。背丈のある細い身体の背中に有坂石材店と印刷された文字を読んで、走り去る姿 に、石というのは、つまり墓なんだろうなと一瞬印象と認識が揺らぐのを遊ばせるように 空を見上げ、細かい雨の落下に暫らく顎を預けると、眉間に焼き栗を乗せたような甘い痺 れが丸く残っていた。  
 手提げから出したタオルで手の甲、口元を拭うと、思いのほか汚れ、喉まで血液の名残 りがあって、雨露に薄められ余計に広がったかなりの量が胸にまで落ちていた。鼻を啜っ てから、でもやはり、この濃厚なミドリイロは近くから流れてくると思った。  
 西側の壁の天井との境の、子供ならば潜ることが出来そうな小作りの、だが足は届きそ うにない高みに、校舎とか病棟の風の震えを思い起す木製の枠の、曇りなく研かれている ガラス窓が、端から端まで一文字に並び、そのうちの二箇所が下から外に向って斜めに押 し開けられ、窓の縁の金属の把手が、雲間から差し込んだ雨上りの陽射しを、鉱物に貫入 して潜む結晶の瞬きのような煌めきでこちらへ反射している。そういえば建物の隣は放ら れたような空き地があった。間近を通り過ぎても気がつかなかった儚い気配を、この建物 の小さな二つの窓が吸い込むようにして此処へ届けたことになる。血液で濡れて、鼻が敏 感になったというのも可笑しいが、それをとらえたわけだ。あの若者のコロンもどこかで 作用したかもしれない。出来事の連鎖が巧妙な仕掛けのような気もした。  
 これまで香りに囚われた記憶はない。匂いに過敏であるような質でもなかったが、錆び た記憶の蓋となったような残り香を、連鎖に促されたのか不器用に手繰っていた。やがて その遠い暗がりから、乳臭い産まれたての存在の、不完全に香ばしい、目を瞑って鼻孔に 全身を預け倒錯を誘う体液の絡む兆しを探しあて、まだ幼い頃、牧場で働いていた伯父の 投げた石ころが放牧牛の眉間に命中し、乾いた音に怯んだ後、臭い山羊の子を抱き寄せて から突き飛ばしていた一瞬の放棄、放下、ゲラッセンヘイトに取り込まれ、糞尿にまみれ た尻の筋肉と泡を吹く家畜の唾液に再び確かに静かに誘われるようだった感覚の凝固を憶 い出した。あの時のぽっかりとした中身が無いけれど果てしない広がりはある気分に今肯 いている。  
 ひとつ間違えば招き寄せた過去に蹲ってしまいそうな身体の撓みを堪えて、爪先に力を 込め唇を砥めると、舌のざらつきが現在の肉体を論すように動いた。唾液を拭き取った指 先を嗅ぐと、胃液が血液と共に含まれていた。

・・・仕草ハ形ヲ超エル・・・・  

 目蓋を指で押さえ、肩を下げるようにして胸の残りを吐き出すと、聞き覚えのない断定 が勝手に唇から漏れ、「独り言」というのは呪いでして・・・。噺家の嗄れた声がその呟 きに重なってきこえた。  部屋の中央まで斜めに差し込む昼下がりの曲折した弱い陽が、それでも淡く宙に漂う金 属質な埃を点描するように際立たせ、透き通った幾何立体をつくりこちらの踵を切断して いる。

 ・・アレハ校庭ノ柳ノ木ノ脇ニアッタ用具室ダッタ・・・  

 自身の半ズボンから曲がってのびた、細い枝のように痩せた太股から脛を憎んで恨めし く眺めた目付きが蘇り、幼い日々の乱暴で些細な約束に芽生えた怯えや、躊躇いや嫌悪が、 砕けたまま足元に繊細に砂鉄のように集まって、光の粒子の前に立ち尽くした放心が、現 在を溶かすように新たに喉元に滲み、誘われて顔つきも焦れた歪みに覆われ、封印するよ うに棄てた筈の、沼の底の堆積物に隠した皮蛋みたいな自虐を掘り出して頬張れば、この 臭みも美味いじゃないかと過去の怯みに開き直る気持ちが頭を撞げた。

 真昼の薄暗がりに独りで立つといういかにもありふれた機会が、数十年の間無かった筈 はないが、高みにある窓を見上げる姿勢と、隙間から溢れる光の呟しさなどの、空間の仕 立てが丁度重なることはなかったのかもしれない。ここまで辿った軽い疲労と精神の揺ら ぎなども助長して、眉間の奥が裂け更に状況を整えた。背後速く走り去る車の音が、開け られた窓からステレオの効果で間近に引き戻されるように聞こえると、今は見ることのな くなった、使い込まれていたるところにある凹みや傷に錆の浮いた塗装は簡単に剥がれる、 フロントが膨れたデザインの、当時どこにでも使われていたあっけらかんとした青い色の トラックを、蹴飛ばすように運転していた大工見習いの、北の街の方言の残る皹割れた唇 の奥の頑強な歯に衝えられビクピク上下するマッチ棒が現れた。二十歳そこそこだった筈 の、肉体的には成熟した男の瞬間を切り捨てるような仕草と、隆起しよく動く筋肉を目で 追っては、存在の差異に打ちのめされていた幼い性の狼狽えが、マッチ棒に火を点し、再 び放心を誘った。
 恥と虚勢で練り上げるしかないのは、お前等も此の身体も全部が間違っているからだと 嘯いた日々は、鬱屈しながらも、身近な大人たちがあからさまに指を差して下品だと嫌う 者たちのスピードと瞬発力を、模範として眺め観察することで、時には未来を直線的に楽 観し、例えば、朝早く起きて走るなどした思いつきで辛うじて肉体に宿った切ないような 疲労を好むことを、脆弱な自身を棄てる端的な手段と決め、そんなことでも続けることで 膨れた胸の肉の変化を、弱く倒錯して滑稽な自覚を促す稚拙な勃起と小便臭い自慰へ結ん でから、自分の匂いを指に乗せコレガヒトノタネカと噎せては繰り返したが、いつまでも 変わらぬ細い骨と拙い歯が邪魔だと肉体への関心を簡単に捨てていた。躯を横に放置して、 煙草を肺に充たし、生の早送りを諦めた夕暮れを、昨日のことのように甦らせてはみるが、 細胞の入れ替わり果てた目蓋の重いような今が、あの時とどれほど変わったのか。かすれ た呟きがもぞもぞと動き、その裏側で、蒙昧な精神は今でもしっかりと此処に根を張って、 肉体の重さが一体何かわからないまま、扱いにも慣れていませんよと、別の声がテロップ のように流れる。
 垂らしたままの手首に血液が溜り、血管が膨れて重くなった。骨に引っ掛かった腕時計 を回し、顎を上げ、再び窓の細長い光の束に瞳を向け、目蓋の奥の香りの残る鈍い眩みの ような痺れに今をそのまま預けた。屋外から流れこむ植物のエッセンスと、徐々に立ち籠 める金属の匂いが、空間を微分するような光の介入で麻薬めいた効果を持つとは思えない が、深みに沈んでいた記憶の破片に浮力を与え、得体の知れない恣意を操り、脈絡無い映 像をプロジェクターに運び、不意に平面的に停止し、あるいはコマ送りしたヴイデオのよ うにノイズを含ませ歪み、またあるいは魚眼レンズで膨れ強引に脳裏に併置されるのだっ た。  封印したブラックボックスを除けば、全て受けとめてみせるとスクリーンになったつも りの細い思念で、それぞれの絵の成立を見極めようとするのだが、認識は遅延しズレて定 まらない。音声と固有名の欠落したイメージは、出自が掴めずに何処かで借りたままの遠 い無縁の印象なのではと訝ると、イメージに鈍いが親しげな後ろめたさが寄り添い、ヒス テリックな怒鳴り声が活字となって絵をこの身体の経験だと正当化する。封印した箱のせ いかもしれなかった。開放されても現在に同化ができそうにない光景が、いかにも「記憶」 というモノトーンやセピア、あるいは所々に色彩が残ったような装いで朽ちて壊れながら、 何も完結していない面持ちで顕れるのだった。
 鼻を畷ると虹矧のようなとらえ所の無い凝固した太い糸が喉に流れ細かい咳がでた。眉 間の痺れは鼻血と結びつかない。脳味噌から何かが流れ出たのかもしれないと腹のあたり で茶化した途端に、流れ出るものなどまだあったのかと異様に白けた。  不確かな断片の幾つかが一人の少女の肉体を示した。友人たちとのつまらない意地の張 り合いが、少女の頬を平手で打つまでエスカレートして、用具室に独り立ち竦んだのはあ の日の午後だったのではないか。頬を叩かれたのは初めてだろう、まずその唐突な出来事 に篤いた少女の、三十年は口にしていないチフミと云う名前が唇から零れた。
 張られた頬を両手で被い、泣きもせず然ってこちらを突き抜くような眼差しが浮きあが った。詫びた記憶はない。お前には出来ないだろうとこちらを試されて反射的に手が動い ていた。理不尽に歪んだ自らのココロが正確に反復される。居合わせた友人らの顔も名前 も失っている。周囲とのズレを気質と戒めながら、つまらない事に迎合し、油断すると身 体が裂けるように痛んだことが他にもたくさんあった。ひとつが突出すると他は一体どこ へ押し返されるのだろうか。記憶への文脈はいつまでも顕れない。

 ・・・・・サウザンド、ステップス・・・  

 自転車で、走る笑顔を追いかけた絵がぼんやり透き通って、少女の動かない瞳に重なっ た。新設された学校の学区にこちらは吸収され、少女とは離れた筈だ。然し放課後、以前 の校庭で何度か自転車を走らせた。懐かしいような気持ちで追いかけた笑顔を彼女のもの と思っているのは、いつかどこかで許されたと勝手に捏造した我儘かもしれない。少女の 赤く腫れた頬は右だったと記憶にあるのも、右利きの自分が左で張ったと後で付け加えた 言い逃れのような気がする。またあの笑顔に逢えると都合良く短絡して、幾度か放課後の 校庭に通ったが一度きりで叶わなかった。然しこの記憶も、赤い夕暮のベットの上の拙い 臆病が形づくったセルロイドのような幻とも考えられる。いずれにしても、彼女はこちら の存在を真っすぐにみつめた初めての他者だった。無いものを在るような素振りで隠す仕 草は、他者をみつめる意気地の喪失を煽り、人間は皆同じだと開き直るのは固有の問題で は、おそらくない。モンスーンのこの澱みが、その錯覚を促している。そう決めて言葉だ けでないあらゆる一切を共有しない者との対峙を求めて歩き、本来的には眼差し自体に、 存在へと直に伸びる意欲と力はあって、それが人間の固有な本質にまで届くこともあると 身体で知るまでは、自身の中に世界が内在し、反射するのだと勘違いをして意識の外でお そらく何度も人間などと簡単に省略し、時には陥れながら差別していた。ヨーロッパの辺 境での暮らしは結局、チフミヘの言葉を探していたとも、今になっては思われる。醗酵し 発作的な相槌にすぎない言語で集団を妄想するこの島国で数年働いて、冷たい大陸の硬質 な空間をすっかり忘れていた。壁の残る西ベルリンの場末の色っぽい店に金も持たずに出 掛け、国籍の判然としない下着姿の女に頭を蹴飛ばされた。不意を突かれて呆気にとられ ていた。連れのイラクの男は咄嗟に女を両手で突いて、阿婆擦れなんだ。何故ひっぱたか ない。と不思議そうにこちらをみた。
 蹴飛ばされたら蹴飛ばし返す世界から帰国して、蹴飛ばされると反射的に謝罪しなけれ ばならない約束を文化と勘違いしている務めをそれでも続け、そんな関係でこそ家族との 生活を強かに温存できる人間たちを眺めて辟易しながら付き合い、「切断」の先送りを繰 り返す事がつまり生きることになっていた。同僚に肩を叩かれ、そうだなやめちまうかと 無駄に酒を流し込んで、狼狽えを無くした脳天気で楽天的な我慢ひとつで乗り切る。生き るということは、都度の決断に瞬間を注ぐしかない。それが真摯なものか酔いに任せた突 っ張りか、正しいか間違っているかなどどうでもよかった。つまり決断という「反射」の 仕草であり、仕方なのだと開き直るが、その仕方を突き詰める意気地は萎えた。狡猾な人 間の手際にある意味関心して、どこか違うと必ず首を傾げ、頭を垂らして足元に弱く蹴飛 ばすものなどをいつまでも探した。
 頬を張って驚いたのはむしろこちらだった。少女の恨めしさとか怒りを一身に背負った と思ってはいなかったし、そのような眼差しを受けとめた憶えはない。ひとつの視線がこ ちらのあまりに貧弱な「人間」であることを深々と貫いていた。ミルコト、カンジルコト に夢中で、みつめることは同時に見つめられることであり、感じることは同時に感じられ ることであるという、いかにも人間的な存在の揺らぎに気がついていなかった。幼い未熟 な精神では仕方のないことだが、記憶としてのこの対峙は、簡単には飲み込めない瞬間が 凍結されている。
 唐突な喪失によって日常があっけなく解体し、感情のうねりが去ってから、出鱈目な記 憶の錯綜が降り続く。数分先の未来の処理から身を引いて、開かれるままの過去を眺めて みようと列車に乗ったのだった。 

 窓を掠めた鳥の羽だろうか物音に怯んで、遡行をぼたっと床に落とした。真横に十セン チずれていたような魂が重怠い身体に戻って、辺りのモノがよく見えはじめ、植物の匂い も失せ、もう慣れたような昼下がりの眩暈と醒めたが、唇には少女の名前が形で残り、よ うやく血液を舌の先に確かめることができたが、鼓膜の奥の首筋へ辿るあたりから、好ん で聞いていた詩人の「サウザンド、ステップス」ときっぱりとそして激しく繰り返す朗読 の声が、フォンタナの画布を裂く手首の運動を伴って遠慮なくザクッ、ザクッと、胸元へ 切り裂くように送られ、その声が幼い少女の名前に変容するのを止めるように自ら小さく 重ねて呟いた。  高さが4メートルはあるだろうか平らな波型の屋根の下に離れて、蛍光灯がふたつ下が って消えていた。入り口のサッシの引き戸の他に、ノブのあるドアが隅にひとつあるだけ で窓は他には無い。壁はコンパネが無造作に張られ、床から天井まで寸法の同じ棚が取り 付けられ、入り口の引き戸の上の壁も天井まで左右から棚が延長され、鉄のL字材と網を 溶接して組み立てられている。中央にはこれも床から天井までを垂直に固定された棚が三 列並び、棚板の間隔が壁と同じであったので、ジャングルジムの中に立って、水平と垂直 とに身体の線を戒められる不安に似た眩暈と、奇妙な整合性を空間に与えている。コンク リートの床には、小さい孔が円形に掘られ、それぞれの棚足を差し込みセメントで固定し てある。奥には障子がみえた。向こう側は住まいに接続されているのだろう、薄赤くオレ ンジ色にぼんやり発光して、人の暮らしのあることが、不思議な気がするほどに静まり返 っている。同じ面積をそのまま位相できる広く空いた障子の上の壁の中心に、四角い時計 があり、唯一動く自覚を反芻する確かさで、振り子が音もなく揺れている。棚には鋸、紐、 ロープ、軍手、青い延長ホース、蛇口、プランター、アルマイトの鍋、作業着、湯たんぽ、 炭鋏、火起し、ビニールシート、釘の箱、油性と水性のカラーペンキ、刷毛、バケツ、三 つづつ強化テープで束ねられた煉瓦、束子、針金、石油のポリタンクなど大小様々な形態 の生活雑貨、金物が隙間無く整然と棚に並べられている。壁も中央の棚も床から膝ほどに ある棚枚の下には何も置かれていない。そのせいでこの部屋を支える基底を見渡すことが できるので、等間隔にぽつぽつと並ぶ丸いセメントの跡が得体の知れない装置となって、 モノを支える磁力か何かをはらんでいるかにみえる。
 イヌイットのサングラスのような空間のスリットである細長い窓の下の棚には物干し竿 やスコップ、柄の長い枝きり鋏と角材が、窓の形を崩さないように棚板に寝かされ、商品 の殆どは箱に収納されたまま、値札らしきものも商品名もみあたらない。店舗というより 倉庫だった。フラットな簡易トタンの大きな壁面に小さくあった入り口を開けた時、プラ イベートな空間に立ち入る感覚が先行して尚それに誘われていた。生活をコツンと弾かせ て細かく分解したようなパーツが置かれているのだから、この店に通えば人体解剖模型の ように透明な一軒の家ができそうだと、最初は眺めも月並みに斜めに動いた。天井まで品 物を高く積み上げられた空間は、系統に忠実な博物館に似た執拗な蒐集の趣があったが、 その内実を眺める者に対して媚びるような虚飾はない。重ねられた薄い箱のひとつを開け てラジオベンチを手にすると、握りの内側にいつか手にした陶芸作品の裏にあった控えめ なものと同じ仕様の、小指の爪ほどの白く丸いシールが貼ってあり、660とボールペンで 米粒を並べたように記されている。フライパンの裏にも同じように2200とあった。「灯 油はこちら」という文字と矢印が、新聞の公告ページをそのまま切り抜いてセロテープで ノブのあるドアに貼って示されていたが、近寄って更に頭をすり寄せなければわからない ほど細く小さい。障子の手前には腰の高さのガラス棚が独立してあり、その中の白い布が 敷かれた棚に刃物がいくつか並び、度々手入れをしているのだろうか、祀られているよう な慎重さで、細かい光を逃さぬように鈍く反射する刃は、見たこともない爬虫類の皮膚を 思わせた。まさか売り物を研ぐわけではないだろうが、時々取り出して曇りを拭き取るそ の仕草を自身の指に重ね、こういった種類の店の主人なった心地で腰を曲げ、刃を眺める だけの非実用的なオブジェとしてみつめると、こめかみが痺れるのだった。
 ガラス棚の手前には一畳程の机があり、厚いガラス板がその表面ぴったりと敷かれ、カ レンダーと商品のリストがプレスされている。骨格は鉄材とコンパネで組まれ足は棚と同 様に床の丸い円の中に固定されていた。動かすことのできない「湖面のような机」に膝を 曲げて、美術作品を眺めるような姿勢で歩み寄り、何も置かれていない水平なガラス面に 暗いトーンで映り込む空間を眺めると、健やかな空虚に充たされた。このガラス板なら、 「喪失」を除けば、過去もすっきりと曇り無く、後ろめたさが拭われてセンチメンタルに 美しく映る気がした。
 一見無愛想な生活雑貨の店だが、みつめると商う人の実務的とは言えない、極めて特異 な仕草が控えめにあれやこれやに顕れて意志の形となり、ここにいては彼の生きる姿勢を 受け止めるしかない。コンクリートの床のヒビ割れは、幾度か修理され、打水の乾ききら ない名残りがうっすらと、所々にあった。毎朝独りで腰をまげ水をまき顰め面で掃除をす る姿が浮かんだ。客は多くはないだろうが、目的を持って訪れる人間に回答を用意して待 つと、このような形になった。店というものは知るかぎり、こちらの都合で存在するもの ではない。こういったものがほしいと願う場合、ほとんどは既にあるモノであって、買う ことはつまり選択でしかない。その選択肢はまず扇動するような、「必要」によって描か れる。そして便利だとか楽だとかいった「必要」を説明する詭弁は、日々を一層細かい断 片に切断して複雑にするばかり。この店にはその必要を殊更に売るつもりがみあたらない。 生活の修理、リサイクル、整理を促し、補充に答えようとしているにしても、需要の少な い筈のアラジンストーブの丸い石綿や、目盛りのないビーカー、試験管、鉄や鉛のインゴ ット、今時の暮らしではその用途が思い当らない錯止めの油紙で包まれた鉄の鎖などは、 売るためでなく、ただ並べるためだけに置かれていると其々の暗喩を邪推したくなる。月 にひとつ売れる程度の鍋や50センチの切り売りの針金で、生計を立てるわけにはいかない。 今流行の商品を節操なく出鱈目に並べるつもりなどない。季節の変化に合わせて、例 えば灯油や雪掻きシャベル、蚊取り鏡香や団扇、茣蓙などを近隣の人々の様子を測って仕 入れ、帳尻を合わせる。故障すること壊れることを前提として消費を促す欠陥をプロダク トプログラムする成長の過渡期に生まれた、変化前提の生に密着した店のそれからは、大 型店の出現や暮らしの安定などによって本来の意味を失って、日々を淡々と変わらずに繋 げるという別の意味を新しく形成しなくてはならなかった。最早「必要」でない事を丁寧 な仕草で据え置く。紙ヤスリ一枚や鍋の蓋といつたささやかで唐突な事態に答える為に待つ。 待つことがシェルターのような生活をつくる。近隣と適切な距離をとってそれを持続 させなければ信頼が成り立たない。モノを並べては眺め、眺めてはまた並べることを繰り 返すことで、この空間は店舗とは違った意味を抱いた。だから漠然と訪れる者の意識が、 変哲のないモノの間を実によく動く。動かされる。ふと試験管を手にし、金の支払いをす る瞬間を予感できる。  目の高さにある重そうに巻かれた鉄の鎖は、この空間の消滅に備えているような逆説的 な気配を醸し、箱に詰め込まれたボルトとナットも充分にオイルを含んで準備され、ねじ 込まれる瞬間を既に果たしている。眺めるほどに、この空間の仕組まれた併置によって創 出された意味の変容に縛られていく。終わってしまった形が、遺跡のような佇みで、意味 と固有名を消失して新しく顕れる。そして、その感触は悪くない。振り返って窓を眺め、 あれが閉じたままであったら、このような時間は立ち現れなかったと領き、いつの間にか この空間の意匠全てを引き受けて了解し、明日からでも働きますと、店を任された錯覚が すっきりと広がって、箱を開け、ひとつひとつ挨を払い、箱に戻すだけの仕事を考えた。  閑散とした住宅地を貫通する細い街道添いの弁当屋、電気店、文具店など散漫に並ぶ商 店街から少し離れ、森田商店と小さく示された箱型の倉庫のような店の隅の棚に、欅だろ うか3センチほどの厚さの一枚板が重く感じられた、折り畳める足の細工は蝶番など使わず、 よく眺めると釘ではなく竹釘か何かを丁寧に忍ばせる工夫がある小さな丸い卓袱台を みつけた。即座にあの部屋にこの身を繋ぎ止める形だと受けとめていた。これであの何も ない四角い空間に腰をおろすことができる。塗装も施されずに磨いたままの、さっぱりと したオブジェであって、量産できるモノではない。値札を探すがどこにも白いシールは貼 られていない。生活のイメージを契約した部屋に当て嵌めるように続けて、色彩の際立っ た黄色の風呂桶と、髭剃の束を、抱えた卓袱台の上に重ね、それぞれのちぐはぐな形の取 り合せを眺めてから首を傾げると、学生の頃の猥雑に散らかった暮らしとミャーと名付け た猫が気怠い反復感を伴って浮かび、モノに依存する生活の意欲がすうっと退くのだった。
 簡単に触れてはいけない。それでも髭剃は必要だから。喉元で怠惰に繰り返すと背後で 物音がした。障子を開け、サンダルを履き、足場に使う脚立を畳んで脇に立て掛け、ガラ ス棚に寄り添って、手首の太い主人が立った。咄嗟に単身赴任が決まつて飛ばされたと出 鱈目を小さく呟いた。こちらのこれまでの動きを見透かされた錯覚が唇あたりに翻った。 理由もなく狼狽えて、生活に何が必要であるかなど全く考えていませんと言い訳を続けそ うになってそれは堪えた。主人の指先に呼応して蛍光灯が点ると、辺りはそれまでより暗 くなって空間の性格が変わり、こちらを支配していたような呪縛がふっと霧消し、背が楽 になってから手元を眺め、卓袱台が四角であったら、三つの辺に幻を呼ぶだろうなと、淡 い戯言を指先に添えて買う決心を繰り返した。  主人はガラス板の敷かれた机に指を置き、目元を伏せて細い声でいらっしゃいと呟いた。

 暮らしが一通りではなくなった  
 これは売れるとは思っていなかった  
 服役者によって丹念に作られました  
 本当は自分で使うつもりだった  
 ところが持ち帰ると 使う必要がみつからない  
 売り物ではないんです   
 値札がないでしょう  
 六千円では高いでしょうか  

構わないと首を振ると、店の主人は、話している間休めなかった、卓袱台を拭く雑巾を 横に置いて、それよりもこれがいいのではと、脚立を北の棚に運び、その一番上に乗って 天井に近い棚から温泉旅館の広い湯槽に並んでいるような木の風呂桶をとりだして、こち らに裏側を向けた。思ったほどではないでしょう。近寄って小さな値段の記されたシール をみて、大袈裟ではないかしらと小さく答えると、主人はあっさりそうですねと、棚に戻 してから脚立を降り、袋に入れた髭剃の束を黄色の風呂桶の内側にセロテープで止め、卓 袱台に引っ繰り返して崩れないように紐でまとめ、持ち運べるようにしてくれた。主人の 動作はなぜかこちらの視線を集中させるので、何気ない作業が周到に訓練された作法のよ うに感じられる。

 プラスチックの手軽なのが他にも沢山あるでしょ  
 安いし軽い 
 でも時間が経つとどうしようもないモノになる  
 使う度に溶けて離れていく  
 少しづつ正体を、本質を顕すわけだ  
 これは大丈夫です  最初から何も隠していない  
 釘を使っていませんね  折り畳む所も巧く出来ている  
 そしてとにかくよくみがかれている  
 つくるという時間が大切だった  
 角を落としていないのは  使い易さを目的としていないということだ  
 ひたすらに清潔な形を求めている  
 気をつけてください 
 角で指が切れるな  
 でもちょつと小さいか  
 寸法というのはおかしなものですね  
 人それぞれのサイズがあって然るべきだが  
 生活の微妙なサイズをオーダーメイドするなんてできない  
 つまり選んだサイズに自分を慣らさねばならない  
 間違えると   
 子供の服を大人が着るような滑稽さが身についてしまう  
 かといって可変式というやつは、優柔不断になる  
 お独りならばいいか    
 よく燃える  
 燃えるということが肝心だ  
 こういうモノばかり売りたいんだけどね  
 そうもいかない  
 ワタシはつくれないから  
 
 主人は半眼を卓袱台に落とし指先で触れながら、ゆっくりと自身の言葉を確かめて、静 かに独り言のように話した。(ならべるだけだから)声に出さずに胸の中で添えた。主人 の小さな声の詩の朗読のようなリズムがまだずっと続くような気がして待ちながら、そし て何か尋ねることがあった、あるいは詫びなければならないが、一体何を尋ね、何に詫び るのだと、途方に暮れる気持ちを瞬きで刻み、支払いを忘れたまま、主人の卓袱台に触れ ている太い人差し指にあるまだ新しい赤く腫れた傷を眺めると、切り裂かれたばかりの傷 口から溢れる瑞々しい赤い血が顕れて、その柔らかい痛みがこちらの指に移り、うっすら と気が遠くなるのだった。
 しばらくして主人は脚立に歩み寄り、携えて西の壁に立て掛け、昇り窓を閉めた。いつ 捕まえたのか、尻尾を悶えるように曲げる蜻蛉の羽を、太い指で器用につまみ光に翳した。 主人のシルエットに向かって、再び懺悔すべき告白が迂闊にも腹から次々と零れそうになり、 頻りにそれを堪えた。  
 他にまだ必要なものがありますか、と主人はこちらを振り返らずに短く尋ねた。  

 必要なものなど何もなかった。ちょつとしたことで簡単に周辺が膨らんで身の動きが鈍 くなる。大きな食器棚や家具などを懸命に積み込んだ引越のトラックをみかけて、憂欝を 愛している疲れた人間を浮かべていた。手にぶら下げている卓袱台と風呂桶にしてみても、 必要というほどのものではない。列車の窓に「ゼロ」という暮らしを妄想していた。だから、 生じる迷いは都度、切り捨てればいい。坂道を下りながら、暮らしの実感が何処にあ ったか記憶を辿りそうになり慌ててやめた。  
 記憶が勝手に降るのは仕方がない。だがこちらから強引にこじ開けて、憶いだそうとす ると、そこに現在の偏ったバイアスが差して結局再び強く封印してしまうに違いない。だ から考えずに目の前に身体を投げ出して預けるしかない。  
 間近に寄ってから肩を避けた電柱に、「布団」の看板が括られていた。眠りを心配しな ければと気付いた。独りというのはこんなものなのだと開直りながら、路上生活者たちの ダンボールまでを気楽に浮かべ、キャンプなどで使う寝袋を考えたが、身体の緩みがそれ を許す年齢でないとごねた。看板の矢印の示す布団店は五分歩いてみつかった。店のガラ ス戸に近付いて覗くと、後から肩を叩かれた。  
 この店はもう閉まっていて人間は逃げた。大家が後の処理の一切を任されている。早口 で説明する男は、斜向かいにある小さな焼鳥屋を指差してアルバイトだという。昼間の仕 込みは気持ちのいいものではないよ。慣れない。別にスキでやってるわけじやない。勝手 に喋りながら、隣りの広い庭に手入れをした植え込みの並んだ、農家を改築した風な玄関 までこちらを引っ張って、大家を紹介してくれた挙げ句、この人に布団を譲ってやってほ しい。まだあるでしょ。窓からみえるもの。大家と呼ばれた農夫の名残を皮膚や指に残す 初老の男は、手に下げた卓袱台と桶を眺めて、布団なんてどこにでも売ってると言いながら、 一度干して使いなさい。後で文句は云わないでくれと一揃五千円で譲ってくれた。ア ルバイトの男は、自分が言い出したことだから。さっさと汚れた前掛けを店の中に放り投 げて、彼の軽トラで部屋まで運ぶと歩き出した。唐突なスピード感に流され、身構える気 持ちは失せて、アルバイトの男の選んだ布団にそのまま領いて、老人には礼も述べなかっ たなと助手席で鈍く考えた。  

 高いこと言うよな  
 布団なんてどうしようもない  
 とっておいたってね  
 あの親爺焼鳥の臭いがたまらないって文句を言うんだよ  
 すんませんって呑ませたら真っ赤に酔っ払った  
 俺は雇われてんだと開き直ったら  
 その雇い主は昔から嫌いな同級生だときた  
 暇なんだよ連中は  
 血が繋がっていないモノは人間じゃないと思ってる  
 ちょっと寄り道するけど  
 
 車は迂回して仕入先だと説明された肉屋に暫く止まった。空を見上げると、ジェット旅 客機が斜線を引くように軌跡を白く残して音もなく移動している。立場の違いとは、あそ ことここの違いということだ。旅客機の座席をおもって、不意に現在を悟った気がした。 振り向いて、荷台に乗せた一揃の布団と卓袱台を眺め、切り詰めてもこうして大袈裟に膨 れる。ひとの手を借りて車などを使うことになって、知らぬうちに楔を打つような堅牢で 容赦ない「暮らし」がこちらを無視して根を張るかもしれない。題名の忘れた70年代の 色素が限られた邦画の鮮やかだが嘘臭いシーンが現在に重なり、自身の発作的な行動に、 結局封印へのメソッドが潜んでいるのだから、不具合など仕方がないのだと、これも幾度 と無く繰り返した諦めで括った。    
                    
 布団屋はふた月程前に消えた  
 何人か取り立てだろう 
 出てこいって怒鳴り声を聞いた  
 子供はいなかった  
 二十年は住んでいたらしい  
 仲のいい夫婦だった  
 俺の店に一度だけふたりで来たよ   
 旨いっていってくれた  
 顔を合わせれば声をかけてくれた  
 今日は暑いね とか 晴れたね  
 二人とも酒は飲まなかった  
 俺には一言いって逃げればよかったのに  
 まあ信用されちゃいなかっただろうけどね  
 運に見放されているのは俺もおなじ  
 借金を大家が肩代わりするわけがないけど  
 布団はヤツのモノってわけだ  
 なんか貧相な買物だな  
 車で十五分ほど行けばでかいホームセンターがある  
 ガーンとデラックスなテーブルもベットもある  
 車貸してやるから 
 その時はいってよ    
 あの鉄湯に通うつもりですか  
 番台の女、俺を無視すんだよ  

 ・・・デラックスか。発作のように湧き出ては止まる喋りはしかし、事実の描写であり、 捏ち上げや誇張や嘘はないと好ましく受け取った。相手構わず自身の感情を制限なく吐き 出す男の喋りを、羨ましく聞きながら、こちらからはこれといって何も浮かばない。マル ボロメンソールを衝える男の髪の毛から醤油タレと炭火の混じった甘い薫りがした。助か りました。と彼に言うと、焼鳥喰いにきてください。狭いけどカウンターで呑めるから。 何もないじゃない。この部屋。カーテンくらいなゃあ。でも三階かあ、いらねえか。から っぽでは興味を持ちようがないが、布団を担ぎ上げてくれたのは詮索好きというわけでは なさそうだった。語尾を茶化すように上げ部屋を出ようとしたので、こんなで申し訳ないが、 車のお礼だと千円札二枚を差し出すと、怒った顔つきで、そんなつもりじゃねえよ。 夕方5時から焼いてるから。自身の御粗末な仕草に後悔しながら、冗舌が孤独を説明する 男の背を見送った。面倒が片付いたと感じながらも、馴染みのない人間やモノに関わりす ぎたと戒めた。守るものなど何ひとつないけれど、無防備にただ立ち尽くすようでは様々 に簡単に蝕まれる。然し些細な関係を避けるように頑なであっては、総てに対して逃げ腰 となって逆に脆うい。胸に留めなければいいか。

 湿気で少し重く感じられた黴臭い紫色の紫陽花模様の布団を、部屋の窓から差し込む陽 に当たるように並べてから、部屋の真ん中に卓袱台の足を広げ床に置くと、フローリング の床に吸い付き、接着剤で固定した程に全くグラつかない小さな丸い水平面ができた。見 事なものだ。部屋の隅に寝転んで煙草に火をつけ根本まで深くふかしてから、卓袱台に反 射する午後の日差しに目蓋を預けると、怠い眠気が落ちるその際で、森田商店の主人が俯 いて山のように盛られた白い肉に太い指でキラキラ光る金属の串を一本づつ丁寧に差して いる幻が浮かんだ。この卓袱台はアイツが自分でつくったな。根拠の無い確信をそこに挟 んで、床に孔をあけて固定するわけにはいかないけどゼロってことだと、白い楕円を縮ん だ頭で膨らませて目を閉じた。  
 妻と娘の笑い声が木霊して、泣いているのか喜んでいるのか判らない反響の夢の中、真 上から部屋を見下ろしていた。中央の丸い小さな卓袱台を抱きかかえるようにして、背を 丸めた男が何か顕わな感じで寝転んでいる。あれは俺ですと指差して、投げやりな気分で 同情まで浮かんだ。真四角だったのかと部屋の形にはじめて気づき、日の丸だ。曲がった 身体が海老にみえて、なんだか貧しい弁当だな。この男飯を喰ったのはいつだったかと思 い出そうとするが、食事の光景は現れない。布団の模様が鮮明すぎるから、きっとあの男 は起きあがって切り裂くぞと思う。動かない身体に終了する、停止する宣言のような衝動 が満ちている。でもそれは自らの命を絶つことではないから、厄介だよな。生きながら消 滅したいわけだ。どうしてここを選んだ。また鼻血が流れてきた。ごろんと転がっただけ の寝相ひとつが、こうも、人間の歩みを顕すのだな。鏡をみてみろよ。とそこまで虚空か ら吐き捨てると、背後に黙って座って目を伏せる妻子の気配が迫り、夢の意識が青白く発 光しはじめて、やがて消える際、遠くで焼鳥屋の声がはっきりと聞こえた。

 ・・・春ダッタラ ヨカッタナ・・・・  

 肩を叩かれて振り向いたような、振り向かされたような、あるいは唐突に気がついたよ うな鮮やかさで、朝五時に目が覚めた。身体の弛緩を探す躊躇いをばっさりと鉈で切断さ れて、目を開ける前から何かをみつめていた風に、始まりから知覚のアンテナがピークに 達している。熟睡していたことを疑う気持ちで両方の手の平を眺め、刻まれた皺を数えると、 視線がズームして皺の谷を飛行する昆虫のように動く。  
 床に入って身を横たえる時から翌朝への切迫感があり、酒などで誤魔化して突っ伏す、 眠り自体を否定するような夜を繰り返していたこれまでと違って、睡眠へ戻ることもでき るのだと、何も無い部屋を顎で見回し、窓寄りに畳まれた卓袱台をみつめた。  
 時間に縛られることなど何もない。然し自在に振るまう為のマニュアルが無かった。ど んな苦痛であってもそれはいつか身に熟すように定着して馴染む。痛い。嫌だ。という悶 えもいつか甘えるような含みを持ち始め、回復すると何か物足りない。差し迫った現実に こそ救われているわけだ。空漠とした理由のない緊張は、気持ちのやり場のなさに戸惑う ことで加速する。無頓着を装うようにしても尚やり過ごすことができない。便器に座り新 聞を広げ髭を剃りストレスが絡み付くように残った朝の混沌の欠如が、可笑しなことに自 身の存在の根拠の喪失感となってこの身体のどこかを締めつけている。身を差し出すよう にして目蓋を閉じると、幾つかの過去が言葉の固まりとなって、喉や腹を蹴飛ばすように、 転がり出て動き始める。その動きを抑えるように、いつになく漲って膨れた股間を握りな がら耳を澄まし仰向けになったまま朝の音を辿る。  
 これまで聞き耳を立てることなどあったかと、まるで初心者の心地で物音を探すと、耳 は部屋を離れた。缶の転がる音が地面から三階のこの部屋の窓まで垂直に立ち上がって長 く続いた。頭蓋を緩く震わせ、鳥払いの空砲が数キロの距離を直線的にパンと胸を貫き新 たな目覚めを促した。出来るだけ克明に音の所在と根拠を探ろうとした。走りだして停止 する足音に、踵を気にして立ち止まる女性の柔らかい肢体と吐息を与え、真下から股間に 向かってストッキングを辿った。何処かでビンの割れたような音には、連続撮影した破壊 される運動の軌跡が、はにかむように笑う子供の広げられた柔らかい白い手のひらの上に 未来派の絵画のようにあらわれる。車が勢いよく走り去るエンジン音に、アクセルに掛か るドライバーの踵の力と悪意を与え、穏やかな人間がアクセルを踏み込む。彼のせいでは ない。などと善良なサラリーマンが夜な夜な過剰なエンジンを玩ぶ至極単純な物語の発端 に触れて遊んだ。  
 世界を成り行きでトレースして産毛のような無邪気を添える1時間程が、意識の緊張を 解き、全体の活性を呼ぶようだった。雀の囀りが響き、頭の芯が解けたように痺れ、血液 の流れや肉の疼きといった身体の細部が感じ取れる。肋の骨が指で摘めようになって、知 らぬうちに多少身の油の抜け落ちたことなどが、他者を観察するように無責任に眺められる。 腹、皮膚、爪、歯、骨、性器と、ひとつづつ確かめてから立ち上がり、布団を押入に 片付け、下着のまま窓を開け、卓袱台を中央に置いて、水を飲もうと水道を捻ると、色の ついた水が流れた。しばらく両手を水に曝してから卓袱台に頬杖をつくと、濡れた指先か ら落ちた水滴が台の上に幾つも丸く静止した。鏡がなかったので頬を指で確かめながらゆ っくり髭を剃った。鉄錆のような顎の血を舐め、健康な徴と受けとめた。卓袱台を折畳み、 布団と昨日買った雑貨類を全て押入に仕舞い、何もない部屋に戻してから、バックからタ オルを取り出して、色がなくなるまで蛇口を開けて流しに水を溜め、タオルを絞って部屋 を端から研き始めた。フローリングのワンルームで、汚れているわけではない。  
 気がつけば陽が傾くまで狭い部屋を磨いていた。トイレのステンレスの管から、窓ガラ ス、流しの下に作りつけられた物入れに残された瓶底の丸い痕、柱、押入の隅々に至るつ まりこの部屋の全ての表面を指先で辿ろうという気持ちに任せた。水滴が滑り落ちるほど の鏡面となった流しの蛇口の下で汚れたタオルを濯ぎ、開ける度に冷たく感じるようなっ ていく水道水で肘から手首までを冷やすと、慣れない運動で軋んだ腰や筋肉の痛みが一旦 背筋に集まつて指先から流れ出る気がした。辺りに飛び散った水滴を何度も拭うことで、 直に皮膚に吸い付く摩擦感を与えるようになったフローリングの床を、肉体の一部として 許すと、作業は頗る好ましく捗った。仕方のない手続きなのだからと、可笑しい論理を遊 んで、手の平で雑巾を素材へ直接与える行為自体も、吹き出る汗も、カラツと晴れ上がっ ていくような空間と共に、これ以上は望めない至福感を煽って、関わる時間と比例して充 実するのだった。眼差しがこの執着の未完を許さないと柔らかく尖って、時々草臥れて寝 転び身体を休めても、済ました箇所を繰り返し確認して行き届かない他を必ず探し出すふ うに細かく飽きもせずに動くのだった。清潔をめざすということではない。部屋というモ ノを道具としてこちらが馴染む為の手段であって、家具を並べ、気に入った模様のカーテ ンを張り、照明を工夫することと別段変わりがない。ただ今はこの何も無い空間をカラッ ポの状態で了解したい。  

 幼い頃、父親の建てた安普請新築の庭は造成の仕方が不十分でまだ石ころが残り、四角 い芝生を敷いても隙間から雑草が旺盛に芽をだして、限りのないような草取りをした。な んて無駄なことをするのだろうと思ったものだ。どうせまた生えてくる。だが腰を屈めて 草を毟る単純な繰り返しに、説明のできない行為の充溢が生まれ、場所が自分のものとな る感触を抱いたものだった。いつしか庭は、新しい建材や塗装の匂いも雨に流され、騒々 しさが消え、雑草は消えたわけではなかったが、存在を見とどけられ許されたような場所 に控えめに芽を出すようになっていた。世界を現実感を持って把握し納得するには、肉体 を使った直接的な介入の課程がまず必要というわけだ。腰に手をあて、チェリーをふかし て庭を眺めていた父親は、この庭は指先で触れて辿って仕上がったと、自らの生き方のさ さやかな完成形と感じたのではなかったか。あるいは何も考えない白い健やかさを手に入 れたのかもしれない。あの時の父親の年齢を通り過ぎたが、こちらは堪え性が無い痩せた 青年のまま、ゼロに辿り着いた。  

 白い使い古しのタオルはどうしようもない色となり、千切れて一体これは何だろうと思 えるほどになり、汗で汚れ襟元の弛んだ着ていたTシャツを四つに裂き、靴下も雑巾に加 えた。天井に直に取り付けられた丸い室内灯の内側に薄い黒子のようにある虫の死骸をみ つけ、成程と、頑丈な卓袱台に感心しながら、手のひらと変わらぬような感覚を持った裸 足で乗り、カバーを外すと、中の亡骸は吹けば飛ぶ乾いた簡単なもので、それよりもむし ろ白い筈のカバーの黄ばんだ表面が、指にぴったりと張りついて、煙や油や挨が層となっ た言わばこの部屋のこれまでの知りようのない時間を実体として顕した。見ず知らずの人 間の肌を幾度も洗っているような強ばった気分で、汚れをそれでも丁寧に落とすと、先住 者の気配はようやく失せて、室内灯は全く別の灯りを部屋に与えた。部屋という空間に肉 体を預け、絶えず付き合っている女たちは、こうして住処を肉体化させるのだろう。女た ちの日常の眺めで生成される唯物的な物質感を手元に集め理解したような錯覚が起きた。 仮初めの住居と割り切ったせいか妻は掃除機しか使わなかった。軽く請け負ってしまった 台所のステンレスを研く仕事は年に一度で済んだ。雑巾で床を拭けと指図したのを堪えて、 妻の好きにさせていた。三階のベランダにプランターを置き、手間のかかる花の手入れを 手伝った。早朝に見た朝露に濡れた花びらを、幾度か放心して眺めたものだ。  汚れても、埃にまみれても、自ら発生させたものであれば構わない。厭わない。だが、 使い古されるしかない空間は、積極的に関わらなければ朽ちる。中古という現実へ自身が 直接介入する場合は、知らぬうちに先住者の物腰や態度、趣味や愚痴までもが乗り移る。 それを嫌って全てが新しい状態を望み実現できる人間は限られている。新築の絢爛な家ほ ど人間の体臭を吸い込んで老朽化が激しいのだと、いつだったかどこかのいかれた風水士 が熱っぽく唾を飛ばして喋っていたが、案外そのとおりかもしれない。下町の使い込まれ た路地と丁寧に磨かれた木造家屋の佇まいを上品な仕草の結実と眺めたことを思い起こした。 世代を固有の空間で丁寧に交替しながら、関わり方の作法を伝えながら穏やかに生き る者もいる。とそこまで悠長な感想に辿り着いて、腫れて痺れた手首を眺め指の骨を鳴ら すと、長い間奥歯を食いしばっていることに気づいた。行為自体が「喪失」という名のブ ラックボックスをも研くことになっていた。  

 日射しも西へ傾き、部屋に陰が満ちると妙な昂ぶりも衰えて、無性に腹が減った。磨く べき箇所がまだ其処此処に残っていたが、外へ出た。暮らしをはじめたとは言えない二日 目であったのに、随分と住み慣れた調子で足取り軽く動いて、駅前までの路を何も考えず に下り、蕎麦屋の暖簾をくぐった。

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